歴史の雑学
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★ 愛知県民は日本を制す?
幕末における300藩主の56%、1000石以上の旗本の45%は尾張・三河出身。室町時代も、細川今川一色など三河出が多い。
※ 現代においては、トヨタ自動車のいろんな意味での出先が全国に展開されているようなものか?

★ 安政東海地震
1854年11月4日09時頃。震源地は遠州灘沖でM8.4。
1854年11月5日16時頃。震源地は静岡沖でM8.4。
1854年11月7日。M7.4。

★ 安政の大地震
1855年10月2日22時頃、震源地は荒川河口でM6.9。民家1万4000戸がつぶれ、町方の死者4700人。武家や寺社を含め1万人以上の死者。

★ 入鉄砲と出女
入鉄砲と出女というのは有名ですが、では江戸時代は「鉄砲の管理が厳重だった」かというとそうではなかったらしい。ものの本によると、江戸時代には手続きをとれば庶民でも鉄砲の所持ができたそうだ。寛政9年(1797年)二月の江戸の町触にも、「町年寄に申請して許可をもらえば、町人、浪人、医者であっても鉄砲の所持を許可する。」というのがあったらしい。目から鱗。

★ 岩宿遺跡
・ 岩宿遺跡: 群馬県みどり市岩宿。1949年に納豆売りの行商をしながら、独学で考古学の研究をしていた相沢忠洋氏が関東ローム層から発見。この地に3万年前から人が住んでいたとは。縄文時代って1万年くらい前だが、いちおう新人類らしいねぇ。

★ 「馬」の価値
・ 古代、馬は金と同じくらいの価値を持った。特に陸奥国糠部郡の駿馬はブランド馬だった。

★ 「江戸300藩県別うんちく話」より
 ほう、江戸時代の各藩の領地には飛び地も多かったとは聞くが、そうだったのかぁ。分かり易い所では、江戸屋敷や京屋敷の賄い費用のための領地なんかは江戸や京の近くにあった可能性が高いからなあ。
・ 彦根藩は世田谷に領地を持ち、井伊直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にある。
・ 滋賀県八日市の南半分は伊達家の領地。
・ 文献上、日本最初の惣(ムラ)は13世紀に近江八幡市奥島で成立した。惣は今でいう自治会。市町村のルーツともいわれる。
・ 検地して石高が増えたので支藩(新田藩)を作ったが、本藩の跡継ぎ養成の目的もあった。
・ 室町時代の尾張国の守護は斯波氏で、守護代が織田氏。越前の守護も斯波氏で守護代は朝倉氏。
・ 幕末には本多家が九大名あった。三河岡崎、播磨山崎、陸奥泉、近江膳所、伊勢神戸、三河西端、駿河田中、信濃飯山。もう一つはどこだ?
・ 越後長岡藩などの牧野家は、三河国吉田(豊橋)の土豪の出。
・ 安土城の遺構はあるが、痕跡はない。安土を本拠地とした豊臣秀次が城下町毎、近江八幡に移転した。
・ 滋賀県甲賀市。忍者関係以外は「こうか」読み。
・ 武田氏は鎌倉時代から甲斐国の守護をつとめた。
・ 信濃国の守護は小笠原氏
・ 高杉晋作の祖先の出は、備後国双三(ふたみ)郡高杉村。
・ 江戸城の住所?: 武蔵国荏原郡桜田郷
・ 栃木名物の「かんぴょう」は、鳥居家が前任地の近江国水口名産の「かんぴょう」を下野国(壬生)に持ち込んだもの。
・ 平将門の乱の中心となったのは下総国岩井。
・ 下館: 平将門の乱の平定時に藤原秀郷が築いた拠点。

★ 江戸時代と現在の位置関係
・ 米沢藩邸(法務省)
・ 彦根藩邸(憲政記念会館)
・ 広島藩邸(総務省・国土交通省)
・ 福岡藩邸(外務省)
・ 松代藩邸(経済産業省別館)
・ 松江藩邸(衆・参議長公邸)
・ 和歌山藩邸(赤坂御所、迎賓館)
・ 名古屋藩邸(防衛省)
・ 水戸藩邸(偕楽園)
・ 前橋藩邸(Hオークラ)
・ 大垣藩邸(ANAホテル)
・ 備中松山藩邸(帝国ホテル)
・ 土佐藩邸(旧都庁、東京国際フォーラム)
・ 延岡藩邸(霞が関ビル)
・ 小田原藩邸(世界貿易センター)
・ 川越藩邸(旧・日産自動車、現・読売新聞社)
・ 岡山藩邸(丸ビル)
・ 小倉藩邸(産経新聞社)
・ 鳥取藩邸(帝国劇場、東京會舘)
庄内藩邸(日経新聞)
・ 明石藩邸(国立劇場)
・ 一橋邸(丸紅)
・ 佐賀、長州、南部藩邸(日比谷公園)
・ 彦根藩邸(明治神宮)
・ 高遠藩邸(新宿御苑)
・ 宮津藩邸(旧・安田庭園)

★ 江戸時代の宿泊
# 大名は本陣に泊まったが、家臣は「下宿」という旅籠屋に泊まった。
・ 江戸時代の農政学者の田中丘隅(きゅうぐ)が書いた「民間省要(せいよう)」によると、「大名家が宿泊した際には、本陣の諸道具がおびただしく紛失し、雨が降ればゴザが紛失、気に入らない事があれば畳に火をこぼし、戸や障子を踏み破る」と不法の数々を書いている。
【大石学著の続 駅名で見る江戸・東京】より

★ 江戸時代の旅
# 参考資料: 東海道五十三次が【超】おもしろくなる本
・ 江戸時代中期の「改元紀行」と言う書物によると江戸時代に東海道を旅する平均旅程は12泊13日(江戸日本橋〜京都三条まで492Km)で、泊まりは、程ヶ谷、小田急、沼津、江尻、金谷、浜松、赤坂、熱田、四日市、関、石部、大津。
・ 東海道膝栗毛の弥次さん喜多は江戸から伊勢まで390Kmを11泊12日で泊まりは、戸塚、小田原、三島、蒲原、府中、岡部、日坂(にっさか)、浜松、赤坂、熱田、四日市。
・ 旅籠代の目安は1泊2食で200文(2000円)。
・ 昼食やお茶代の目安は50文。
・ お酒は1合30文、草鞋は10〜15文、さかやき剃りは一回3文、
・ 熱田(宮宿)から桑名までの七里の渡しの船代は45文。川越人足の費用は50〜100文。
・ 1日の旅費の目安はは300〜400文。
・ 名主が公用で旅するときに支給される旅費は約350文。
・ 東海道の旅費は、片道一両、往復二両。これは大工の一月の手間賃に相当する。また往来手形の発行費用は100文。
・ 江戸時代に時刻を知る方法の代表的なものは寺の鐘だが、旅先では役にたたない。そこで利用されたのが猫時計だそうだ。猫の目は、六つには丸く、五つと七つには卵形、四つと八つには柿の種形、九つには針のように細い。
・ 三勤交代の費用は、佐賀藩鍋島家の費用は全行程で2600両で年間予算の約20%。薩摩藩は約1万両。行列の人数は5万石で150人。加賀前田家は最大3500人。
・ 飛脚のスピード: 江戸から京都まで90時間(元禄時代)後には70時間。
# 江戸時代の旅のグルメ
・ 鮫洲名物、穴子の蒲焼き
・ 大森名物、海苔茶漬け
・ 川崎名物、奈良茶飯(炊き込みご飯)
・ 由比宿名物、サザエ
・ 安倍川名物、安倍川餅
・ 鞠子名物、とろろ汁
・ 宇津ノ谷峠名物、十団子(とうだんご)
・ 見付宿(磐田市)名物、すっぽん
・ 新居宿名物、鰻の蒲焼き
・ 桑名名物、焼き蛤
・ 草津名物、姥が餅(うばがもち)
・ 大津名物、源五郎鮒
# 東海道の旅のお土産のナンバーワンは薬。
・ 薬で有名のは小田原の「下郎(ういろう)」で、頭痛に効き、胃の中の熱を下げ、口中を爽やかにする丸薬。薬を開発した宇野藤右衛門が京都の下郎家の庶流だったことに由来する。
・ 静岡市の興津宿の藤丸膏薬。
・ 伊勢朝熊山の万金胆(まんきんたん)。腹痛や胃腸の病。
・ 草津宿近くの梅木村の和中散(わちゅうさん)。家康の命名と言われる。

★ 江戸時代の人口減
現在の日本でも少子高齢化は大きな問題で、人口減少に直面しているが、かつても人口増から人口減に転じたことがある。
ものの本によると、享保の改革の増税以来日本の人口増加はストップしたといわれる。
しかし、それ以外にも度重なる飢饉の影響もあるのではないだろうか?
ちなみに江戸時代の三大飢饉は、「享保17年(1732年)」「天明2年(1782年)」「天保4年(1833年)」で、特に天明の大飢饉では東北地方に大きな被害が出、仙台藩では人口70万のうち半数が餓死したという。

★ 江戸時代の衰退
明暦5年(1657年)いわゆる振袖火事がおきるが焼けた町800町、焼死者10万人。江戸は俗に808町というから江戸の大半が焼けた。江戸城にも類焼し、江戸城本丸の修復費だけで100万両とか。
そして、その頃から諸国の金銀山からあがる鉱山収入(当時の幕府の租税収入に匹敵していた)が減少しだし、財政が悪化、貨幣の改鋳が何度か行われた。
おまけに、江戸ではほぼ6年おきに大火事がおきている。
これでは徳川幕府が衰退しない方がおかしい。

★ 江戸城を囲む七つの大地
上野 本郷 小石川 牛込 麹町 麻布 白金 に囲まれた中心、つまり江戸城が風水で言われる龍の穴で栄える。
出典: 日本地図から歴史を読む方法 武光誠 著

★ 江戸城の広さ
ものの本によると、広さ30万7000坪(101.31ヘクタール)とのこと。

★ 江戸の人口
江戸の人口: 享保6年(1721年11月)の統計によると町人の人口は50万1394人。武士人口の統計は無いが全人口は100万と言われている。
※ 昔は、作物の輸入なんてなかったわけですから、主食の米の生産高が即人口に結びついたものです。江戸は諸国から米が搬入されていましたが、全国的に言えば3000万石>3000万人とかいわれましたね。
・ 1600年頃: 約15万人
・ 1700年頃: 約35万人(町人)
・ 1732年: 53万6380人(町人)
※ 武士などを合わせると町人の約2倍となる。
・ 1840年の全国の人口は約2600万人。江戸は約55万人(町人のみ)。

★ 江戸の範囲
#  江戸後期の文政元年に幕府が発表した「御府内」の朱引図による。
・ 東は江戸川
・ 南は品川
・ 北は王子
・ 西は東中野
# 寛文年間の新板江戸外絵図の測定によると
・ 江戸の総面積: 63.42平方キロメートル
・ 武家地: 43.66平方キロメートル(約69%)
・ 町人地: 6.75平方キロメートル(約11%)
・ 寺社地: 7.90平方キロメートル(約12%)
・ その他: 5.11平方キロメートル(約8%)
・ 人口約80万人。寺院約850。神社約120。町数約900。橋約270。人口密度1平方キロあたり45,000人。

★ 江戸の水
川の水は硬度が高く、それで炊くと米や豆は硬く昆布の出汁も取りづらい。だから江戸料理は硬水でも出汁がとれる鰹節を使う。深いところからくみ上げた井戸水は軟水なのだそうだ。
ビックコミックオリジナル 2011 7.20 「あんどーなつ」より

★ 江戸の歴史
・ 1603年に神田山を切り崩して日比谷を埋め立てた。
・ 1620年には、駿河台を切り崩して神田川を開いた。
・ 家康の関東移封の際に、秀吉は江戸をその中心地にすることを勧めたというが、その理由は「江戸には小田原や鎌倉にはない舟入(ふないり)があるので、今後繁盛するだろう。」とのこと。つまり港を作りやすいということのようだ。そういえば、秀吉恩子の大名は皆港町に城下を開いたが、家康譜代の大名で港町を城下にした人は少ないと聞いたことがある。やはり、秀吉は信長の影響を受けてか、海外との交流も含め、船による物流に先見の明があったのかなぁ?

★ 江戸幕府の役職
# 大老: 非常職で10万石以上の譜代大名で、実質は「酒井」「土井」「井伊」「堀田」の四家から選ばれた。
# 老中: 定員3〜5名で2万5000石以上の譜代大名から選ばれ、月番制をとった。
# 若年寄: 江戸城勤番士や役人の統括を行った。
# 大目付: 大名の監察が役目。
# 目付: 旗本や御家人の管理・監察。

★ 江戸八百八町
・ 江戸八百八町の町とは、1辺60間(約118m)四方の町割りを表す。実際は最高で1700町くらいあったらしい。

★ 江戸前とはどこを意味する? 
・ 江戸時代には「西は品川州崎一番棒杭から羽田地先海面、東は深川州崎松棒杭を見通した内側の海」。
・ 現在は内湾説と外湾説があるそうだ。
・ 水産庁が設置した、「豊かな東京湾再生検討委員会食文化分科会」が2005年に発表したところによると、外湾説をとっている。富津岬と観音崎を結ぶ線の内側を内湾、千葉県房総半島の州崎と神奈川県三浦半島の剣崎を結ぶ線の内側を外湾という。

★ 江戸末期の飢饉の原因
江戸末期の飢饉は歴史でも学んだが、それが地球の寒暖の波に影響されているとは知らなかった。
 下記の本によると、現在の地球は長いスパンでみると暖かくなっているそうで、約一万年前に最後の氷河期ヴュルム氷河期が終わったことによるらしい。
日本においては、四世紀から六世紀の古墳時代は寒冷期。その前の邪馬台国の卑弥呼の時代は今より一度ひくかった。そして、江戸時代後半も寒く飢饉が多かった。そして、その飢饉は東北地方においてより顕著だったそうだ。
出典: 日本地図から歴史を読む方法 武光 誠 著

★ お家騒動
# 江戸時代におきたお家騒動の多くは、「藩政改革に乗り出した藩主と、旧体制や既得権益を守ろうとした家老側の対立」を原因としている。
※ 今も変わらないが、ごたごたの無い組織は何も改革がなされない組織。その言い訳に、「改革する事が無い」という理屈がある。

★ 大木戸: 江戸の入り口
・ 高輪(東海道)、四谷(甲州街道)、板橋(中山道)
※ 時代にもよるだろうが、昔の江戸の出入り口には大木戸があった。西は甲州街道の四谷大木戸だから、ここから西は江戸じゃ無く郡部だね。しかし、東海道の高輪大木戸と中山道の板橋大木戸はあるが奥州街道にはなかったのかな?

★ 大阪は天下の台所
大阪が天下の台所と言われたのは堂島に米市場があり、全国の米が大阪に集まったから。

★ 応仁の乱の原因
@ 有力守護大名家内部の内部抗争
A 将軍家の跡目争い
B 細川山名二大勢力の抗争

★ 改易・転封(てんぽう)
# 改易: 領地を没収されること。
# 転封: 国替えのことで、領地を移転すること。
# 江戸時代を通じて改易になった大名家は248家。

★ 「合戦」「役」「乱」「変」
・ 合戦: 敵味方が出会って正々堂々と勝負を決める戦い。「桶狭間の合戦」※そういう意味では桶狭間は合戦と言えるのか?正々堂々と言っていいのかな?
・ 役: 比較的長期に渡って小さな戦いが続く。「前九年の役」「後三年の役」。形式上、天皇の命で起きた戦い。
・ 乱: 役よりも期間が短い。「承久の乱」「磐井の乱」
・ 変: 戦いよりも政変の意味合いが強い。朝廷内部のクーデターなど、権力闘争の小さな戦い。大きな戦いは乱。

★ 鎌倉公方
・ 室町幕府の出先機関で関東公方とも呼ぶ。
・ 二代将軍の足利義詮(よしあきら)の弟の基氏(もとうじ)が初代鎌倉公方で、その子孫が世襲した。
・ 鎌倉公方の支配地は、伊豆、甲斐、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野で、後に出羽と陸奥が加わった。
・ 鎌倉公方の補佐役が関東管領

★ 川越藩の国替え画策の裏情報
幕末の庄内藩は表高14万石、実高19万石、年間黒字3万6千両とある。川越は表高15万石、実高4〜5万石、借財23万両。
※ これだけの差があれば、川越藩が川越から庄内(鶴岡)に異動したかった訳がわかるね。もし実現していたら、庄内藩は越後長岡に異動していたらしい。もしそうなれば、幕末の長岡藩の悲劇(北越戦争)は回避されてたんだろうねぇ。しかし、庄内藩の領民や、庄内藩の事実上の経営者と言われた本間家の猛反対もあって実現しなかったが。

★ 川開き
 享保17年(1732年)に、全国的な凶作が続き、コレラが大流行して死者が多数出た。そこで、徳川吉宗は翌年の「両国の川開き」の時に死者の鎮魂のために花火を打ち上げた。これが夏の花火の始まりという。
・ 川開き: 江戸時代の都心の川は夕涼みに最適で多くの人で賑わった。江戸では隅田川の両国橋などが人気を集め、夏場の3カ月間だけ露店をだすことが許された。そういった露店の営業開始日を「川開き」の日とした。

★ 関東郡代
江戸幕府で、関東の天領(幕府直轄領)の農政を担当し、主として関東の水系の整備や灌漑治水、検知による年貢額の査定収納を行った。
1792年までは伊奈家の世襲でつとめた。
役宅は、常盤橋御門内から明暦の大火後に馬喰町に移ってきた。
周辺には諸国から公事訴訟を持った農民が上京して泊まる公事宿(行政書士機能付き宿屋)が多くあった。

★ 木賃宿
江戸時代初期の宿屋は食事を出さなかったので、宿泊客は自分で煮炊きした。そのためには薪を背負って旅をする必要があり、それではいかにも不便ということで、宿屋が準備するようになった。その際に薪代を払ったので木賃宿というようになった。

★ 享保の改革
 徳川吉宗の享保の改革: 吉宗は幕府中興の祖といわれるが、最近の評価は農民収奪の張本人、年貢増徴の君主として厳しい評価。
@ 足高の制 幕府官僚体制の整備
A 上米の制 旗本?御家人の財政難救済
B 定免法 年貢収納強化
C 新田開発・甘薯などの新作物奨励
D 目安箱 庶民の意見を聴取
E 株仲間結成 商業統制

 享保の改革後、どうして人口増加がストップしたか。江戸初期に1600万人だった人口は、新田開発とともに吉宗の時代には2600万人に増えていた。武士をいれると約3000万人。しかし、それ以後人口は増えない。増税により生活が苦しく、家族を養えないので子供を生めなかったからと言われている。
 最近の少子化の原因もここにあり?現代の低金利という名の増税、そして元禄時代はバブル時代だったのか?

★ 金属貨幣の始まり
 日本の金属貨幣の始まり、8世紀の和同開珎。しかし、実際に実用化されたのは、12〜13世紀。12世紀後半の清盛の時代、疫病が流行した。これは「銭の病だ」という風評がたった。

★ 下克上
 下克上 語源は、中国の隋の(五行大義)といわれ、その十論(相剋)に(凡そ(およそ)上、下に剋つ(かつ)は順たり。下、上に剋つは剥(はく)たり。)

★ 兼六園
金沢の兼六園は、二代前田利長の時代から時をかけて造営され、その名付け親は老中の松平定信。これが加賀藩の生きる道だった。

★ 「国司」対「郡司」
 古代、その地域を掌握していた国造は、律令制のもとで中央から派遣された国司のもとで郡司をつとめた。これでは、国司対郡司の権力闘争が起きやすい。

★ 子だくさん
・ 11代将軍 家斉 40名以上
・ 備前岡山藩池田綱政 70名以上(養女も含む)。ただし、多くは成人をまたずに病死。

★ 作況指数
1993年の大凶作で米の全国の作況指数は74。青森28、岩手30、宮城37秋田83、山形79。

★ 参勤交代 → 【詳細】

★ 三大武将の比較
参考: 河出書房新社 日本の三大武将(歴史の謎を探る会編)
日本の代表的な三大武将と言えば、「織田 信長」「豊臣 秀吉」「徳川 家康」の三人であろう。この三人を題材として扱った本は数多く存在するが、この本は「どのような青春時代を過ごしているか」「得意戦術」「宗教対策」など様々な視点から三人を対比して見たものである。
その中の一節に、「好みの女性」というものがあり、三人の三者三様が伺われる。
この三者の女性の好みを表す言葉に、「後家好みの信長、上淫好みの秀吉、下淫好みの家康」というのがあるそうだ。
# 織田 信長
信長には側室が10人ほどいたらしいが、その中で寵愛した「吉乃」「お鍋」の共通点が「子持ちの未亡人」であることから言われているようだ。これは、母親に愛されなかった反動なのかもしれない。
# 豊臣 秀吉
秀吉には側室が17人ほどいたらしいが、その中で寵愛したのが「淀君」「加賀の局」「京極の局」である。淀君は御存知のように、主君信長の妹「お市の方」と浅井長政の間の娘。加賀の局は御存知前田利家の娘。京極の局は浅井長政の姉と京極高吉の娘。このように良い所の女性が多いようで、これは秀吉が百姓の出で、家柄にコンプレックスを抱いていた裏返しなのかもしれない。
# 徳川 家康
家康は美貌よりも知恵のある女性を好んだと言われている。これは徳川家の家政のきりもりを視点においたものといわれているが、はたして意図的にそうしたものかは定かではない。しかし、結果としてそれが徳川家の安定に役だったことは間違いない。

★ 三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)
・ 三内丸山遺跡から出土された翡翠は糸魚川の姫川渓谷のものらしい。
・ 糸魚川の姫川渓谷の翡翠を加工していたのが、玉造部(島根県玉造温泉)。宮城県にも、玉造郡があるが。
・ 三内丸山遺跡によると、5500年前に500人以上の集落が1500年も続いた。食料を貯蔵し、栗林をつくり、稗を栽培し、女性は三種類の髪型を競い合い、耳にピアスをし、漆塗りの櫛で髪を飾っていた。ボディコンの鹿皮の服を着ていた。
・ 三内丸山人は北方系モンゴロイド人種。吉野ヶ里人は南方系モンゴロイド人種と騎馬民族の混血。
・ ちなみに魏志倭人伝の頃の倭人と今の日本人は遺伝的には同じではないらしい。
・ 元来、南方系の人は母系家族で、支配力をもつことを好まず、のんびりとした生活を好む。北方系の人は父系家族で、家柄や伝統を重んじ、支配者の命令のもとにいっしみだれない行動をとり、騎馬民族風。

★ 縄文海進
・ 常陸国風土記によると、縄文海進の時代の海は、利根川中流域の古河付近まで広がり、また他の文献によると3世紀頃の広島では、太田川流域の可部付近まで海であった。また大阪付近では、上町台地に抱かれた巨大な湖潟があり、北は千里丘陵の南端まで山がせまり、南は大阪城付近まで半島として上町台地が海に突き出していた。

★ 縄文時代
# 縄文時代の人口は気候の変動によって約10〜30万人と言われる。一説には26万人(東日本25万人、西日本1万人)と言われる。
# ドングリが主食で、クルミ、クリ、トチ、カヤの実などを食べていた。
# 日本の土壌は酸性なので、石灰岩土壌や貝塚以外からは人骨は溶けてみつからない。
# 縄文時代の0才児の平均余命は17才。
# 縄文時代の晩期の全国の人口は75,800人、東北地方の人口は39,500人。
# 縄文晩期における九州の人口は6300。弥生の渡来人は10万5000。

★ 縄文人と弥生人の特徴
# 縄文人: 眉が太い、二重瞼、広い顔幅、厚い唇。
# 弥生人: 眉が細い、一重瞼、面長、薄い唇。

★ 隅田川
・ 隅田川は平安時代中期に書かれた「伊勢物語」にも、「武蔵国下総国のあいだに大きな河があり、角田河(すみだがわ)という」と記されている。
・ 江戸時代には隅田川には4つの橋しかなかった。「大川橋」「両国橋」「新大橋」「永大橋」。

★ 善光寺の由来
前略
物部尾興が難波の堀江(運河)に新仏を捨てた。
信濃国の本田善光がこの堀江を通りかかると、どこからか「善光、善光」と呼びかける声が聞こえた。すると、水の中から姿をあらわした阿弥陀如来様が、「そなたは月蓋、聖明王の生まれ変わりで有り、過去世(かこぜ)に我と共にあった者だ。我を信濃に連れて行くように」とおっしゃったという。そこで、善光は阿弥陀如来を背負って信濃に戻った。
中略
時の皇極天皇はこの仏像の人気を知り、阿弥陀如来様のための伽藍造成を命じた。そしてできたのが善光を開祖とする善光寺。
・ 仏像を捨てた堀江は大阪市藤井寺小山と比定されている。ここは河内国志紀郡長野郷と呼ばれており、「長野」の地名もここに由来すると言われる。
・ 善光寺の阿弥陀如来は百済から伝えられた最古の仏像。
・ 本田善光と息子の善佐は信濃の国司?
・ 6世紀に長野氏なる一族が河内から信濃に移り住んだ。長野氏は渡来人で高句麗・百済系。
・ 善光寺は百済寺ともいわれる。
# 流浪の旅のご本尊
・ 善光寺のご本尊は、武田信玄が川中島の戦いによる消失を懸念し甲府に移した。上杉謙信が直江津に移したという説もある。
・ 武田家が滅亡後、織田信忠が岐阜に移した。
・ 信忠の死後は信勝が清洲に移した。
・ 徳川家康が浜松に移し、その後甲府に戻した。
・ 京都の方広寺の大仏が地震で倒壊したので、甲府から京に秀吉が移したが、秀吉が重病となり「本尊が枕元にたって、信濃の地に戻りたい」といったので、信州の善光寺に戻した。

★ 戦国時代から江戸初期は成長期?
戦国時代から江戸時代前期にかけて耕地は約3倍、人口は約2.5倍に。
※ 耕地面積が3倍って、どんだけ開拓したんだ。おまけに人口が2.5倍とは。でも明治維新から昭和にかけての100年間で人口が3〜4倍になっているのに比べるとそのエネルギーがわかる。

★ 戦国時代の軍役の目安
・ 100石あたり7人。徳川家康が関東入国した時の石高は250万石だったか?とすれば、動員できる兵力は17万5千人?そんなに多いのか?越後国は約40万石と言われるから、上杉家の動員数は2万8千人。川中島の合戦への動員数などをみても、そんなもんかな。
・ 時代はわからないが、米1万石あたり動員できる兵力は約250人という数字もあった。それで計算すると250万石で6万2500人、40万石で1万人だが・・・・。

★ 惣(そう)
惣(そう)とは、名主層と平百姓層が新しい村落共同体を作ったもの。惣の代表例、近江国菅浦惣(滋賀県東浅井郡西浅井村菅浦)

★ 太閤検地の持つ意味
・ 薩摩国では土豪の力が強く、領主の島津家でさえも家臣の領地の検地などは不可能とされていた。それを石田三成が乗り込んで徹底した検地を行った。その結果、島津家は22万5千石から56万石に表高が増えた。一方島津家では家臣団に検地で増えた石高では無く、もとの領地で自己申告していた低い石高にみあった新しい領地に移した。つまり、額面の給料は同じだが闇給与分をカットしたようなものだそうだ。たとえば種子島氏は知覧に領地替えされた。その、実高と申告高の差額は島津家の直轄領地として繰り入れられた。また、5万石ほどは検地の手数料として秀吉の懐に入ったそうだ。
 家康が関東に移されたときも、家臣団と三河の地元との古くからの癒着を排除するのに役立ったと言われる。
 上杉景勝が越後から会津に移されたときも、秀吉は「武士は皆引き連れていけ、百姓は一人も引き連れていくな」といったそうだ。

★ 大名家の区分
1867年現在: 親藩24家、譜代大名136家、外様大名106家。計266家。

★ 大名家の藩士の数
・ 会津120万石時代の上杉家の家臣は6000名。

★ 大名屋敷
・ 1〜2万石(2500坪)
・ 5〜6万石(5000坪)
・ 10〜15万石(7000坪)
# 加賀前田家の本郷上屋敷(約10万4000坪)
# 水戸徳川家の小石川上屋敷(約10万2000坪)
# 市ヶ谷の尾張家7万5000坪
# 上屋敷は藩主の居館、中屋敷は隠居した藩主や嗣子の住居や藩の江戸役所や藩士の住宅。
# 下屋敷は藩主の別荘や倉庫など。

★ 中世の作法
・ 反対勢力は徹底的に根絶やしにする。平家は頼朝や義経を生かしたことが、後に平家が滅ぶ遠因となった。頼朝は平家を根絶やしにした。信長の比叡山の焼き討ちもかな?室町時代から、比叡山、などの宗教勢力は兵力を持ち、政治に口を出し、実力行使を行った。それを廃除するための一つの方法だったんだろう。
・ 時に比叡山の焼き討ちって信長が最初ではないらしい。室町幕府の七代将軍、足利義教も比叡山の焼き討ちをやっているらしい。

★ 町民の生活
・ 1868年の東京日日新聞に、「裏店の住民は月に1両2分あれば、親子5人が暮らせて寝酒の一合くらいは飲めた」とある。
・ 大工や左官の手間賃は1日412文。
・ 9尺2間の棟割長屋の家賃は1カ月800文。
・ かけ蕎麦16文
・ 鰻丼(上): 600文(今の4000円)

★ 敦賀〜琵琶湖の運河計画
・ 平安時代: 平清盛
・ 安土桃山時代: 豊臣秀吉
・ 江戸時代初期: 徳川幕府
・ 江戸時代末期: 加賀藩 幕末で中止
・ 明治時代後期: 日本政府 日露戦争で中止
・ 昭和8年: 土木工学者 田辺朔郎
・ 昭和38年: 四日市市長の平田佐矩と自民党副総裁大野伴睦 大野の死去で中止
※ いずれも実現せず。

★ 刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)
寛仁3年(1019年)に、日本が16日間異民族の侵略をうけた。

★ 東京の不動尊
※ ほう、「目黒不動と」「目白不動」は知っていたが、そのほかに「赤」「青」「黄」もあるんだぁ。

# 目黒不動の他に目白不動、目赤不動、目青不動をあわせた四不動は古来より有名。徳川家光はこの四不動に目黄不動を加え、江戸鎮守のために五不動を江戸の五カ所に安置した。
・ 目白不動: 文京区関口駒井町の新長谷寺に安置
・ 目黒不動: 目黒区下目黒三丁目の龍泉寺に安置
・ 目赤不動: 文京区駒込浅嘉(あさか)町の南谷(なんこくじ)に安置
・ 目青不動: 港区旧麻布町の観行(かんぎょう)寺に安置→港区赤坂の教学院に併祀され、その後教学院は世田谷区太子堂四丁目の現在地に移転
・ 目黄不動: 台東区三ノ輪二丁目の永久寺と江戸川区平井一丁目の最勝寺の二カ所に祀られている。

★ 東北勢が中央を制覇
・ よく、東北は中央に5度征服されたという表現があるが、歴史上一度だけ東北勢が京を制したことがあるそうだ。
・ 足利尊氏が後醍醐天皇を京都から高野に追放した後、北畠顕家が尊氏を襲い、京都から追放した。
・ しかし、北畠顕家は関東武士を制圧することができず、多賀城から霊山に逃れ、最後は尊氏軍との戦いで、摂津国石津(大阪府堺市)で敗れて自害した。

★ 東北地方の支配 
・ 前九年の役の頃、東北北部には、「奥六郡(岩手県内陸中南部)には安倍氏」「出羽仙北の清原氏」「気仙の金(きん)氏」「北方にも別の安倍氏」がいた。
・ 源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後、御家人の棟梁、下総の葛西清重を奥州総奉行に任じて、藤原氏に代わり当地を治めさせた。葛西氏の領地は岩手県南から宮城県北。

★ 東北 不屈の歴史をひもとく 岡本公樹 より
# 白虎隊って300人以上いたのか。生存率は80%をこえるんだね。飯盛山で自刃したのは19人といわれるが、実際の自刃は6人で、残りはその他の戦死らしい。
# 賊軍だった会津からも維新後結構人材がでてるんだねぇ。
・ 新島八重の兄の山本覚馬は初代京都府議会の議長になったのか。
・ 東京帝大初代総長の山川健次郎は白虎隊の一番隊の生き残りか。妹の山川捨松は薩摩出身の陸軍大将な大山巌と結婚してる。
# 締めのこの言葉は感慨深い。
「東北人とは、先祖代々同じ場所に住み続けている人達だけではなく、わずか数年いただけでも、または父母のどちらかが、あるいは伴侶が東北出身というだけでも、十分東北人になる資格がある。」「江戸っ子は三代続かないと」みたいな縛りは無し。

★ 徳川家康の側室
・ 徳川家康の側室に「お八」がいる。お八は、太田道灌の末裔なのだそうだが、側室にしたときには家康は49才、お八は13才。江戸時代の刑法では13才以下の女性と関係をもてば、和姦であっても強姦とされるそうで、権力者は法を破ってもいいのかと思っていたが、考えて見ると家康が49才っていうのは江戸時代前だから、江戸時代の刑法は関係なしか。

★ 徳川家の財政
・ 徳川家康が死亡した時の遺産は約195万両。
・ 秀忠に将軍を譲った時は420万両あった。
・ 秀忠は在位中に40万両を食い潰した。
・ 家光は日光東照宮の建立に60万両使った。
・ 四代家綱の時代になると、諸国の金銀の算出量が減少し、また鎖国のために、幕府の財政は逼迫した。
・ 天領800万石中400万石は旗本の知行地。残りから、諸経費をひくと政治予算は約14万両。1709年には幕府の御金蔵は空。
・ 光圀は大日本史の編纂に藩財政の3分の1を費やした。

★ 徳川幕府
徳川家康が江戸に来たのは1590年8月1日。当時の江戸は寒村というイメージがあるが、実際は国内物流の拠点港として結構栄えていたらしい。
小田原城の総攻撃中に関東移封を告げられ、当時の江戸城代の遠山氏から家康の家臣の戸田忠次に引き渡された。
もし、家康の関東移封が無かったら、徳川家は天下を取れたか?仮に天下をとっていたら、その後の日本の中心地は今の中京圏か大阪あたりになっていたのだろうか。
伊豆、相模、武蔵、上野、下総、上総の240万2000石と京の賄い料10万石(近江、伊勢、駿河、遠江)。

★ 渡来の時期
・ 朝鮮半島を中心として、東北アジアの人々が日本列島に渡来してきた時期。
・ 1期: 弥生時代の前後。
・ 2期: 五世紀前後(応神・仁徳天皇のころ)
・ 3期: 五世紀後半〜六世紀前半(雄略天皇時代を中心とした時代)
・ 4期: 七世紀後半(白村江の戦い後)

★ 奈良時代の推計人口(沢田至氏の研究より)
・ 対馬(7000人)、一支(1万600人)、肥前(8万1400人)、筑前(9万2700人)、備後(7万3400人)、出雲(8万1700人)、大和(13万300人)、筑後(7万3300人)、肥後(18万5500人)。

★ 南蛮人
・ 南蛮人とは大陸(中国)からみて南方のの人たちを指す。
・ 戦国時代の日本では、東南アジア経由で来訪したスペイン人やポルトガル人を南蛮人とよんだ。

★ 日蓮
 日蓮は、死後の安息を願うより、現世の充実をと言っている。しかし、攻撃的で過激なゆえに、異端児として排斥された。

★ 日本海
 歴史上、文献に初めて「日本海」という表記が出てくるのは、イタリアの宣教師のマテオ・リッチが1602年に北京で作成した「坤輿万国全図」に漢字で「日本海」と書き、太平洋を「小東洋」と書いていたものらしい。また、我が国では蘭学者の山村才助が1802年に書いた本の中で「日本海」という名称を使ったのがはじめといい、日本海の古名は「北ッ海」といった。【渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か 上田正昭 角川選書】

★ 日本国
・  我が国を「日本国」と言い始めたのは、670年〜700年頃。【渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か 上田正昭 角川選書】
・ 607年の第二次遣隋使のときの国書に、「日出ずる処の天子・・・」とあり、すでに「日本」という国号が使われているという考えがある。しかし、大和王権が正式に使い始めたのは大宝2年(702年)の大宝律令の施行以後。【日本の歴史がわかる本 小和田哲男 三笠書房】
・ 日本という国号が定められたのは、7世紀末の天武天皇・持統天皇の頃。現在の青森県周辺は、古代には「ひのもと(日の本)」とよばれた。【図解 おおづかみ 日本史 「歴史読本編集部」編 新人物往来社文庫】
・ 7世紀のはじめころ(天武天皇の時代)、大王は天皇へ、倭は日本と呼ばれるようになった。

★  日本中央の碑
青森県上北郡東北町にあり、昭和24年に発見された高さ約1.5mの石碑。坂上田村麻呂が蝦夷をせめてこの地を征服したときに、自ら石の表面に「日本中央」と彫った。「つぼのいしぶみ(壺の碑)」と呼ばれた。
・ 昔の日本は対外的には「倭国」、対内的には「大和」だった。「日本」は「日の出るところ」の意味で、「世界の中心」という意味の「対中国」むけに、「日本」という国号を使ったのが始まりとされる。唐の「旧唐書」には「日本が倭国を併合した」と書いてる。事実はその逆だが、当時このあたりを「日本」と呼んでいた証でもある。

★ 日本の人口
・ 紀元前8100年(縄文時代早期): 約2万人
・ 紀元前5200年(縄文時代前期): 約10.6万人
・ 紀元前4300年(縄文時代中期): 約26万人
・ 紀元前3300年(縄文時代後期): 約16万人
・ 紀元前2900年(縄文時代晩期): 約7.6万人
・ 紀元前1800年(弥生時代): 約59.5万人
・ 725年(奈良時代): 約451万人
・ 1150年(平安時代末期): 約684万人
・ 1600年(安土桃山時代末期): 約1227万人
・ 1750年(江戸時代): 約3100万人
・ 1873年(明治時代): 約3330万人
・ 縄文時代の中期には東日本に人口の約9割がいた。
・ 全国の人口調査がはじめて行われたのは、1721年の吉宗の時代。
・ 石高とは米の収量ではなく、年貢賦課のために米に換算した課税評価額。
・ 1721年から1846年までの125年間に上野、下野、常陸の人口は20%以上減った。何があった?20%以上増加したのが北陸、中国、九州。東北地方の太平洋側の減少率も大きいから冷害でもあったんでしょうかねぇ。
以上は 【人口から読む日本の歴史 鬼頭宏 講談社学術文庫】
# 八世紀の日本の人口は600〜700万人。
・ 常陸国の人口は216,900人。
※ 沢田吾一の調査より
・ 卑弥呼の時代、渡来人の人口は100万人を越えていたという説もある。縄文人と渡来人の比率は1:5。

★ ETV特集 日本と朝鮮半島2000年 第2回 任那日本府の謎(NHK)より
・ 朝鮮半島南部は日本が支配したと言う定説を覆す発掘調査
・ 日本式古墳: 前方後円墳が五世紀後半から六世紀前半の短い時期に朝鮮半島の南西部に作られた。確認されているだけで13基。
・ 百済の指示で現地豪族が作った。これは無いだろう。なぜなら、この時期の百済の安寧王の墓よりも大きい。
・ 地方豪族が作った。
・ その地域に移住した倭人が作った。
・ 倭の指示で地方豪族が作った。
・ 任那の日本府。任那を日本の領地とするには無理がある。府とは、倭の政府機関ではなく、安羅にいた倭の有力者、倭の常駐使節、倭の一時使節団、百済が倭のために派遣した使節団、現地の倭人などか?
・ 当時の、倭と朝鮮との交流の中心は百済。
・ 百済の官職に名を残す倭人: 「穂積」「科野(しなの)→日本の歴史にはないが、百済の歴史に名を残す」

★ 日本文化の始まり
 今ある多くの日本文化の始まりは室町時代にあると言われている。たとえば、能や狂言、お茶、お花といったものですね。また、日本人が三度の食事をとるようになったのも室町時代からで、それまでは朝晩二度の食事だったようで、食生活の内容においても、味噌と醤油が一般化したのも室町時代と言われている。また、住居においては、畳を部屋一面に敷き詰めるようになったのも室町で、それ以前は部屋の中の坐るところだけ一部に敷き詰められることが多かった。
 また婚姻に関しても、平安時代や鎌倉時代は婿取り婚であったが、室町時代から嫁取り婚が多くなってきたらしい。

★ 忍者
 戦国時代には忍者はいなかった
・ 「忍者」という言葉が拡がったのは戦後で、昔は「間諜」や「間者」と言ったそうだ。
・ 「間諜」は古代には「うかみ」と呼ばれ、「うかがい見る」に由来する。
・ 聖徳太子の時代に新羅からきた間諜が捕まったという記録がある。

★ 幕臣
江戸時代末期の直参旗本は約5200人、御家人は約1万7300人。
200石以上を「御目見」格。

★ 幕末の奥州戦争の死者
庄内藩322、長岡藩309、米沢藩283、盛岡藩112。官軍の秋田藩が361。

★ 幕末の陰の立て役者
庄内藩と本間家は、事実上の幕末の立役者。
幕末の引き金を弾いたのは庄内藩とも言われる。
・ 鶴岡、長岡、川越。バーター移封の阻止による幕府の権威の失墜。
・ 庄内藩士の薩摩藩邸焼き討ち。

★ 幕末維新の有名人【江戸300年「普通の武士」はこう生きた 八幡和郎/臼井喜法 ベスト新書】
・ 板垣退助(220石)、大隈重信(200石)、高杉晋作(150石)
・ 乃木希典は長府藩の80石。
・ 福沢諭吉の父は中津藩13石2人扶持(実高20石)。足軽よりは格段に良いが、士族の下級。
・ 参考: 10石未満が足軽。使用人の給料は男(銀100匁)、女(銀50匁)。二人で2石程度。一般には150石を超えれば「上士」と言われた高級武士。「たそがれ清兵衛」のヒロイン(宮沢りえ)の兄は500石。「たそがれ清兵衛」は50石。「武士の家計簿」の猪山(いのやま)家は本来70石。

★ 藩
江戸時代には藩はなかった。「藩」という名称は明治政府が使い出したもの。

★ 非人
11世紀頃、非人という言葉がでてくる。穢れを清めることを仕事とした人をさした。京都の清水坂周辺が非人の拠点となり、「宿」と呼ばれた。この時代、宿場の宿とは区別されていなかったが、戦国時代には非人宿を区別して夙(しゅく)と言った。
 そういや、夙川なんて地名があったなぁ。たしか、兵庫県西宮市。

★ 兵糧攻め
日本初の兵糧攻めは、後三年の役において、源義家が1087年に蝦夷の清原勢の立てこもる金沢柵(秋田県横手市)で行ったもの。

★ 武士の年収
・ 知行取: 100石取(100俵)なら、米100石の収穫のある土地を拝領する。
・ 蔵米取: 春・夏・冬の3期にわけて玄米として支給。
・ 江戸末期の1000石の旗本の場合、年間収入は約460両。家族5人の生活費や交際費などの支出は約100両、屋敷の維持管理費は70両、家来や女中など十数名の使用人の人件費が160両、借金返済に90両など。大店の番頭クラスの収入。

★ 仏教とお墓
・ ブッダ自身が、家や親を捨てて出家したので、もともと仏教には先祖代々の墓という概念はないが、日本古来の先祖崇拝の概念が仏教に取り込まれた。

★ 故郷(ふるさと)
・ 「故郷(ふるさと)」(文部省唱歌)を作ったのは信州生まれの高野辰之。長野県水内郡永江村(中野市永江)出身。小布施の近くか。
永江の最寄り駅はJR飯山線の「替佐(かえさ)駅」
「かの山」は「大持山・熊坂山・大平山」、「かの川」は「斑川」か。

★ 戊辰戦争の戦後処理
会津藩が下北に追いやられたのはわかるとして、鶴ヶ城の落城後に、路上や野の遺体をそのままに放置するようにとの軍令がだされ埋葬を禁じられたのはちょっとなぁ。

★ 豆味噌の力
三河の八丁味噌は栄養価が高い。従って、八丁味噌を食べていた家康や信長の兵は、米味噌や麦味噌を食べていた他国の兵を圧倒した。←面白い論理だ。

★ 源頼信とその子の逸話
・ 今昔物語集 巻二十五ノ第十二 馬盗人の射殺の件
この評価は真っ二つに分かれるそうだが、問題はこれを書いた人の趣旨だよな。その趣旨を抜きにして良いの悪いのと論じても意味なし。
・ 秀吉対光秀の争いをどちら側の視点から書くのかによって主人公も変わるし、善悪も変わる。

★ 村の始まり
 柳田国男曰わく、「日本の村の4分の3は室町時代に出発点をもつ。」。それ以前と以後では集落の形が異なる。端的に言えば、以前は散村、以後は集村。

★ 室町時代
 室町幕府は京都の室町に幕府を開き、その出先機関を鎌倉において東国を支配させた。これを鎌倉府と言い、そのトップを鎌倉公方(関東公方)と呼ぶ。この鎌倉公方を補佐したのが関東管領で代々上杉家が務めていた。越後の武将長尾景虎はこの上杉家の養子となり、後の上杉謙信となった。
・ 日本を代表する文化の、お茶、お花、庭、能、狂言などは室町時代に始まった。
・ 一日三食も室町時代から。味噌や醤油、そうめんやうどんも。
・ 畳を部屋一面に敷き詰めるのも。
・ 婿取り婚は平安時代には主流となり、鎌倉時代もそうだつた。室町時代からは嫁取り婚。

★ 明暦の大火
・明暦の大火: 明暦3年(1657年)1月18日。被害は江戸城、藩邸160余、旗本屋敷770余、寺社350余、町屋400町余、橋梁61。江戸の市街地の2/3が消失し、死者は10万人余ともいわれる。
・ 明暦の大火後の復興事業で、江戸の町は674町。明暦の大火によって江戸の町人を武蔵野に移住させて、新田開発を行わせた。
・ 神田連雀町の町民25戸を立ち退かせて火除け地とし、多摩に移住させて連雀新田(三鷹市)を開いた。吉祥寺等も同じ。

★ ヤマト
・ 八世紀初頭にヤマトではあらゆるものがひっくり返った。大宝律令(701年)の影響が大きい。この時期から朝廷と蝦夷の対立関係が始まったという。しかけたのは朝廷側らしいが。和銅7年(714年)に尾張、信濃、越後から民200戸が出羽国に移された。その後次々に移民を送り込んだ。そして養老4年(720年)9月に、ついに陸奥国の蝦夷が蜂起した。これらの一因としては、蘇我氏のなどの旧政権が東国の後押しをうけていたが、藤原政権下では東国の力が邪魔だったから。

★ 弥生時代
・ 弥生時代の前期は九州北部の一人がち。弥生時代の後期には、出雲、吉備、近江、尾張の地が栄えて来た。

★ 吉宗 VS 宗春
これはものの本で読んだもので実態がどうだったかは不明なのだが、暴れん坊将軍で有名な八代将軍徳川吉宗と尾張徳川家が対立していたことは有名である。
吉宗は享保の改革に代表されるように「倹約、緊縮」を旗印にして政を行ったが、一方の尾張藩主の徳川宗春は贅沢を奨励?し自由化により産業を振興させたそうだ。その結果名古屋を中心とした尾張地方は非常に栄えたという話もある。
今で言えば、吉宗は質素倹約財政再建派で、宗春は積極財政派とでも言えようか?
もちろん、昔と今の情勢の違いはあるものの、果たして緊縮財政による財政再建が吉なのか、イマイチよくわからない。日本にはお金が無いから不景気なわけでは無く、お金を使わないから不景気なわけで、国民にお金を使わせる贅沢奨励策が待たれるのでしょう。
で、結局現在における贅沢奨励策とは何かということだが、家電や自動車のエコポイント的な政策がそれなのだろうか?
 尾張の徳川宗春は1730年に七代藩主になったが、それまで禁止していた遊女町の設置を許可、芝居や勧進能を奨励し、常設の芝居小屋も公認した。武士の芝居見物も許可したので江戸や上方から役者が流入して芝居の興行も活発化した。このような政策で名古屋は繁栄したが、結局財政破綻し、再び倹約政策になった。
 どちらの政策が良いのかはわからないが、こういった歴史に学び、日本も破綻の道を歩まないように注意せねば。

★ 領地の安堵
戦国時代から幕末まで領地が変わらなかったのは、南部、相馬大関、大田原、大村、松浦、宗、鍋島、五島、島津だけ。
※ それだけ入れ替わりが激しかったということですね。

★ 老中
# 一大名家からの老中就任者数
・ 陸奥棚倉藩阿部家: 6人
・ 播磨姫路藩酒井家、備後福山藩阿部家、三河西尾藩松平家、遠江浜松藩井上家: 5人
・ 陸奥磐城藩安藤家、下総関宿藩久世家、下総佐倉藩堀田家、三河吉田藩松平家、山代淀藩稲葉家、若狭小浜藩酒井家、相模小田原藩大久保家: 4人。

★ 倭寇
李氏朝鮮では、1446年当時の役人の報告書に、「倭人は一、二にすぎず朝鮮の民が倭服を着て海賊をやっている」と書いてある。
「明史」によると、16世紀以降の後期倭寇は、日本人は3割ほどで、多くは「偽倭」や「装倭」と呼ばれる日本人風に変装した明の海賊だった。
・ 前期倭寇は日本人中心だったが、後期倭寇(室町末期から戦国時代)は中国人が中心だった。
・ 「三島倭寇」と言われるように、日本人の倭寇の出身地は、「壱岐島」「対馬」「松浦半島」が中心だった。
最終更新日 2016/12/24

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