渡来人
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■  「渡来人」か「帰化人」かという論争もあるようですが、ここでは「渡来人」という扱いで、日本への渡来の記録を追ってみたいと思います。

■ 近江国神崎郡(かんざき): 日本書紀の天智天皇4年2月の条に「以百済国百姓男女四百余人、居于近江国神前郡」と見え、百済の人々が開発に従事したことが見られ、次いで3月の条に百済人の集落が建設されたことが見えている。彼ら渡来人は東大寺など南都の諸寺の瓦などを焼いたと伝えている。【角川日本地名大辞典】

■ 信濃国筑摩郡: 「続日本紀」によると、757年に孝謙天皇は「高麗・百済・新羅の人たちで、以前より聖化(天皇の徳化)を慕って来朝し、我が国の風俗になじみ、姓(氏)を給わることを望む者には、すべてそれを許し認めよ。」という勅令を出した。789年、「信濃国筑摩郡」の「宗守豊人(むねもりのとよひと)」らに「田河造」の氏姓を賜った。現在の長野県松本市の田川の地名のルーツと聞く。その後、中信から北信にかけての筑摩郡には多くの高句麗人が移り住んだ。麻績は渡来人の居住の中心地だった。【角川日本地名大辞典】

■ 渤海から出羽に集団移民した例【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】
・ 続日本紀: 天平18年(746年)、渤海人、鉄利人計千百余人が帰化を求めてやってきたので出羽に安置した。」
宝亀2年(771年)渤海の青綬大夫壱万福ら三百二十五人が17隻の船で野代(能代)湊に着いている。
※ 渤海使は野代湊をはじめとした日本海側に30回以上上陸したという。
※ 渤海使は727年からの約200年の間に35回来日しているが、そのほとんどが日本海側に上陸している。

■ 武蔵国高麗郡: 続日本紀によると、霊亀二年に駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野の高麗人1799人を移住させて高麗郡をおいた。

■ 武蔵国新羅(新座)郡: 続日本紀によると、淳仁天皇のころ、新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移して新羅郡をおいたとある。

■ 陸奥国: 類聚国史の巻159田地上によると、天長元年(824年)五月に新羅人辛良、金貴賀、良永白ら54人を陸奥国に移して口分田を給したとある。また日本三代実録の貞観12年(870年)2月に、太宰府管内に住んでいた潤清、宣堅ら30人や前から管内に住んでいた新羅人らをあわせて陸奥国の空地に移せという勅令がでて、9月に彼らを武蔵・上総・陸奥に移したとある。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

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