「本多」の名字の由来
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■ 本多(ほんだ)

【2016/8/21:改編】

# 296位

# 藤原氏清和源氏、清川氏などにみられる。

# 豊後国が発祥の地。藤原兼通の子孫と称し、豊後国本多郷にいたが、足利尊氏のもとで尾張国地頭となって三河国に移り住んだ。

# 四国を除いて、ほぼ全国に分布し、特に長崎県(島原半島)や群馬県(特に北西部)に多くみられる。

# 長崎県:32位、群馬県:117位、福島県:122位、石川県:159位、愛知県:164位、〜山形県:384位。

# 本多家
・ 徳川譜代で最大勢力をほこるのは本多家で大名八家、旗本多数。本多家は江戸時代には大名13家、旗本45家という資料もあるが、時代によって違うんだろう。
・ 藤原兼通の子孫。豊後国本多郷をルーツとし、足利尊氏のもとで尾張国地頭となり、子孫が三河国に移り住んだ。
・ 藤原北家の公家の二条家綱の後裔といわれる。家綱の孫の秀豊が豊後国の本多郷を領し、本多氏を称し後に三河国に移り住んだというが不詳。

# 徳川家康の家臣の本多忠勝の先祖は京の加茂神社の神職。この加茂神社の神紋が「葵(アオイ)」。葵の紋はここに由来する。本多忠勝の家紋

# 中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる藤原兼通一族や、清和天皇の子孫で源姓を賜った清和源氏の一族の清川氏などにもみられる。
徳川家康の家臣で「徳川四天王」の一人「本多忠勝」が有名で上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。。
徳川家康の家臣で「鬼作左」と呼ばれた「本多重次」は「明瞭簡潔な手紙の筆者」として有名。それは、「一筆啓上火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」というもので、長篠の戦いの陣中から留守宅の妻にあてたもの。越前国丸岡藩。
※ 余談であるが、簡潔明瞭な手紙の一つとして「世界一短い手紙」として有名なのが
ヴィクトル・ユーゴーのものである。「レ・ミゼラブル」が出版された直後に、海外から出版社にあてて「売れてるか?」という趣旨の手紙を出し、出版社では「売れてるよ!」という趣旨の手紙を返したもので、本文は各々「?」と「!」だそうです。

※ なお、読み方は同じだが漢字が違い、名字のルーツが同じというものが結構多い。代表的なのは「渡辺」「渡部」などだが、「本多」と「本田」は読みは同じだが、ルーツは異なるようだ。ただし、漢字としては「本田」から「本多」に転じたようで、「田→多」の例は他にも見られる。「前田→前多」など。「多」は「佳字」である。

# 宮城県の本多家

# 福島県の本多家

# 石川県の本多家

# 福井県の本多家: 

# 静岡県の本多家

# 愛知県の本多家

# 三重県の本多家

# 滋賀県の本多家

# 兵庫県の本多家

# 本多静六: 埼玉県久喜市の出身。「公園の父」と言われる。日比谷公園、小諸公園、奈良公園、岐阜公園、室蘭公園、尾道公園など。

# 本多(本田)髷。幕末の武士の髷の結い方で、徳川家康の時代に活躍した本多平八郎忠勝の髷の形が広まったもので、江戸時代中期頃から流行した。

# 愛知県豊川市の旧小坂井町の東に伊奈城址がある。15世紀半ば以降、本多氏の居城。本多氏は豊後国日田の出身で、室町時代から伊奈を本拠地にした。

【本多】
# 本田に通用することがある。
# 藤原氏族北家兼通流。兼通の男顕光第十一代右馬允助秀が、豊後国本多に住んで本多を名乗った。後に三河に移り住んだ。

【苗字の謎が面白いほどわかる本 丹羽基二】より
# 「ほんだ」はもともと本田が正しく、「元の田」を意味し、新田に対する旧田のこと。後に佳字の「多」に変えた。
# 山城の藤原北家道兼流があり、多くはこの系統と言われる。
# 近江の膳所藩の本田氏は、九条関白兼通の後裔。

【戦国大名家辞典 森岡浩 東京堂出版】より
# 愛知県の本多氏: 三河国の松平氏の重臣で藤原北家の出と言われる。藤原兼通の11代裔の助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称した。助秀の子の助定が足利尊氏に仕え、尾張国横根・粟飯原を領し、後に三河国に移り住んだ。その後は松平氏に仕え、「嫡流」「伊奈本多氏」「西城本多氏」がある。
# 嫡流: 嫡流の「本多忠勝」は、家康に仕え「酒井忠次」「榊原康政」「井伊直政」と共に徳川四天王と言われた。徳川家康の関東入国に際して、上総国大多喜10万石を領す。江戸時代には、伊勢国桑名10万石、播磨国姫路15万石など各地を転々とし、明和6年(1769年)に三河国岡崎藩主となった。播磨国山崎藩主や陸奥泉藩主の本多家は分家。
# 伊奈本多氏: 三河国宝飯郡伊奈(愛知県豊川市伊奈)に住んだ。徳川家康の関東入国に際して、下総国匝瑳郡小篠郷(千葉県匝瑳市)で5千石を領す。江戸時代には三河国西尾2万石を経て元和3年(1617年)に近江国膳所3万石を領す。伊勢国神戸藩主や三河国西端藩主、越前国福井藩家老の本多家は分家。
# 西城本多氏: 三河国西城に住んだ。本多正信は徳川家康に仕えて、その子の正純は元和5年(1619年)に下野国宇都宮15万5千石を領したが、後に断絶。宇都宮の吊り天井事件か?本多正重は元和2年(1616年)に下総国1万石を領し、後に駿河国の田中藩主となる。加賀藩家老の本田家は同族。
# 土井本多氏: 西城本多氏の支流。本多秀清が松平氏に仕え、1497年に三河国碧海郡土井郷(愛知県岡崎市)を領した。徳川家康の関東入国に際して、上野国白井城2万石を領し、江戸時代には三河国岡崎5万石から、信濃国飯山2万石へ。【家紋:本多立ち葵】

【姓氏苗字事典 丸山浩一著・金園社刊】
# 本田・本多(ほんだ): 誉田
・ 新田に対して、もとの田が本田。
・ 最も古い氏族は、信濃国安曇氏で、古代の大族で、善光寺に金仏を祀ったという信濃国水内郡の本田善光はその子孫で、諏訪地方に広まった。
・ 武蔵の本田氏は武蔵国男衾郡本田(埼玉県)をルーツとし、武蔵七党の丹党の出。子孫は後北条氏に従い、後に帰農した。
・ 薩摩の本田氏は桓武平氏の平良文の末裔で、島津久光が薩摩国下向したときに随行した。その後は大隅国の守護代を務めた。
・ 播磨の赤松氏、肥後の菊池氏などにみられる。
・ 徳川時代に栄えた本多氏は、もとは本田氏を称した。出自は藤原北家で、関白の藤原兼通の子の顕忠の末裔という。
・ 徳川四天王の筆頭の本多平八郎忠勝の系統は、顕忠の十世助秀が豊後国(大分県)本多に転じ、その子の助定が尾張国愛知県)に転じた。
・ 尾張の本多家は豊臣秀吉に仕えて本多利久が大和国高取城主となった。藤原氏とは別系統で尾張源氏の水野氏の出という。
・ 代表家紋: 本田立ち葵・丸に本の字。

【本多の地名】

# 本多(ほんだ): 東京都国分寺市本多。もとは大字本多新田といったようで、本多氏が開いた新田か?

# 本多(ほんだ): 埼玉県新座市本多。

# 本多村(ほんだむら): 福島県会津若松市北会津町安良田本多。江戸時代から明治初期にかけて福島県会津地方にあった村名。本田とも書き、会津地方中部、鶴沼川東岸に位置する。

# 本多町(ほんだまち): 石川県金沢市本多町。

# 本多(ほんだ): 福井県越前市(旧武生市)に昭和時代にみられた町名。地名は、本多富正を祀る藤垣神社が鎮座していることによる。【角川日本地名大辞典】

# 本多町(ほんだちょう): 大阪府河内長野市本多町。

# 本多村(ほんだむら): 明治時代から昭和初期にかけて奈良県にあった村名。


■ 本多忠勝 ・ 本多正純 ・ 本多正信

■ 本多家

■ 飯山藩 ・ 泉藩 ・ 岡崎藩 ・ 神戸藩 ・ 膳所藩 ・ 田中藩 ・ 西端藩 ・ 山崎藩


# 本多正信といえば、真田丸の近藤正臣のイメージが強いか?でも、近藤正臣といえば、私の年代だと「近藤です」というギャグや、「ピアノの上を爪先立って歩く」、テレビドラマの一シーンかなぁ。

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