名字と地名の由来&歴史
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※ 「名字の由来」を勉強すると「地名と歴史」に行き着く。「地名の由来」を勉強すると「日本古代語、朝鮮古代語、アイヌ語」に行き着く。「古代語」を勉強すると、結局「古代の歴史」に行き着く。ということで、三段論法で、今日から読み出したのが「逆説の日本史 井沢元彦 小学館」。
なぜ定説の日本史の本を選ばなかったのか?それは、単に「定説」は教科書のようでおもしろくないともいえるし、私があまのじゃくだからとも言える。

★ 古代とは、四世紀の大和朝廷の日本統一から、飛鳥、奈良、平安時代までを言う。


★ 古事記
・ 参考: 古事記物語 鈴木三重吉著 他

※ 古代を謎解くとするとやはり「古事記」に行き着く。とは言え、難しいので上記の読みやすい「古事記物語」を読んでみた。

# 日本列島が出来た順番: 淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州。合わせて、大八島。

# 国譲り神話
・ 出雲国稲佐の浜(いなさのはま)は島根県出雲市大社町にある海岸で古事記の「国譲り」にでてくる重要ポイントである。
・ 大国主命は地界を天照大神の子孫に「国譲り」する見返りに出雲の大社を作って祀るように要望して自殺した。

# 天照大神の子孫の鵜茅草茸不合命(うがやふきあえずのみこと)の四人の子のうちの末息子の神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)が「高千穂の宮」に行って天下を治めた。しかし、日向はへんぴで政(まつりごと)をするのに不便だったので、豊前の宇佐を経由して筑前国に移動した。筑前の岡田宮に一年いた後に、安芸国の多家理宮(たけりのみや)に七年、備前国の高島宮に八年住まい、そこから船で摂津の浪速(なみはや)を越えて河内国の青雲の白肩津(しらかたのつ)という浜に着いた。そこで、地元の兵に攻撃を受け、紀伊国の熊野についた。そこから大和国の吉野川の河口を経由して大和国の宇陀(うだ)へ、そして忍坂(おさか)へ。そこで、大空の神の血筋の「にぎはやひのみこと・芸速日命」とあう。
うん?ここでも「伊那佐という山での戦い」が記されている。出雲のいなさ(稲佐)と関係は?
そういった経過を経て、神倭伊波礼毘古命は天下を平定して大和の橿原宮で初代の天皇となる。つまり神武天皇とは神倭伊波礼毘古命のこと。神武天皇は137才まで生きたとさ。

# 第十代の崇神天皇(すじんてんのう)の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が初めて伊勢の天照大神の社に仕えて祭事を司った。これって「斉王」?

# 出雲大社が壮大なのは最初からだったのか?古事記をみると、垂仁天皇の皇太子が生まれつき口が聴けないのを、出雲な大主(おおかみ)の祟りとして、壮大な社を作って祀ったのでは?

# 白い鳥
第十二代の景行天皇の子が、九州の熊襲建(くまそたける)兄弟を成敗したときに、日本武尊命と名づけられた。

# 朝鮮の王子の天日矛(あめのひほこ)
新羅の阿具沼(あぐぬま)のほとり。赤い玉から生まれた娘と結婚したが、あまりワガママを言うので、妻は「親の国に帰る」と言って、小舟で摂津の難波の津まで逃げ帰った。そして、阿加流媛(あかるひめ)と言う神さまとして祀られた。
天日矛は妻を追いかけて、難波の海まで来たが、そこの海の神が邪魔をして入れてくれないので、但馬に回ってそこで上陸した。そして、そこで嫁を貰って住み着いた。日矛はそこに来る時に鏡などの宝物を八品持って来た。その宝物は伊豆志(いずし)の大神という神様として祀られた。

# 応仁天皇の時代、新羅から沢山の人が渡って来た。応仁天皇の子が仁徳天皇

# 允恭(いんきょう)天皇は、日本中の部族の中で銘々にいいかげんな姓を名乗っているのを嘆いた。


★ 日本書紀
  
# 日本列島を作ったとされるのは、男神の「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」と妻で女神の「いざなみ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)」で、この二人から生まれたのが、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と「月読命(つきよみのみこと)」と「素素戔嗚尊(すさのおのみこと)」。
 
# 二神が初めて作った国は不愉快なものだった。これを我恥(あはじ)の意味で淡路島(あはじしま)と名付けた。
その後二神は
「大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」=本州
「伊予二名州(いよのふたのしま)」=四国
「筑紫州(つくしのしま)」=九州
「隠岐州(おきのしま)」=隠岐島
「佐渡州(さどのしま)」=佐渡島
「越州(こしのしま)」=北陸一帯
「大州(おおしま)」=出雲
「吉備子州(きびのこしま)」=児島半島
の八つの島を生み、これから「大八州国(おおやしまくに)」の名が起きた。
 
# 大八州国を生んだ二神は次に海や川や山を生んだ。そして木の祖先である「句句廼馳(くくのち)」と草の祖先である「草野姫(かやのひめ)」を生んだ。
そして、日の神である「天照大神」が生まれた。続いて月の神である「月夜見尊(つくよみのみこと)」が生まれた。そして「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が生まれた。
 
# 「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」の子が「大己貴神(おおなむちのかみ)」で、後の「大国主命(おおくにぬしのみこと)」
 
# 国譲り: 古事記では、天照大神が脅しを持って大国主命から国を取り上げた表現だったが、日本書紀では平和的に国を譲ったという表現だ。さすがに官書である日本書紀ならではの表現。
 
# おう、神武天皇曰く、「聞いた話では、東方に大和という国があり、、、」ということは、当時大和の遙か西にいたのか?大和で初代天皇になったがその前は西方の地にいたのか。
日本書紀では、神武天皇は127歳で崩御したとされているが、、、、、。
 
# 日本書紀で、女性の陰部を「陰処(ほと)」と表している、神奈川県横浜市保土ヶ谷の語源だな。
 
# 神功皇后が朝鮮に兵を送り、新羅を平定した?それに応じて、高句麗も百済も日本に降伏?完全に大本営発表だなぁ。

# 壬申の乱で勝利した大海人皇子は673年に第40代の天武天皇となり、684年には「八色の姓(やくさのかばね)」を定めた。
1 真人(まひと)
2 朝臣(あそみ)
3 宿禰(すくね)
4 忌寸(いみき)
5 導師(みちのし)
6 臣(おみ)
7 連(むらじ)
8 稲置(いなぎ)

★ 現代語訳 日本書紀【抄訳】菅野雅雄 新人物文庫 より

・ 古事記は何回か読んだことがあるが、日本書紀は初めて。たしかに古事記は物語風だけど、日本書紀は文献の趣がある。著者の注釈、これが役に立つんだなぁ。
・ 天照大神が天岩戸に隠れたとき、八百万の神々が「天の安河」で相談したが、この川、天上の世界に想像された川だが、地上の、滋賀県の野洲川がモデルらしい。
・ 八咫鏡: この「八」は「七」の次の「八」では無く、無限を表す古代日本の神聖数。「江戸八百八町」「旗本八万旗」「うそ八百」「八岐大蛇」などが代表的。「咫」は長さの単位で「掌」を「四本の指と親指を対立させていっぱいに開き、その親指の先から中指の先までの寸法」で約22〜24cm。
※ 意味わからん。
・ 豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)
これ、日本の美称だけど、どうも最後の二文字が気になるなぁ。
・ 天鈿女命(あめのうずめのみこと): 「鈿(うず)」とは「挿頭=かざし」で髪に挿す物(カンザシ・髪飾り)。古代に特殊な植物(天の香具山の榊)を挿した女性は、神がかりすると信じられていた。天鈿女命は「天上世界の、髪飾りをした巫女」の意味。
※ 天岩戸の前で踊ったんだっけ?
・ へぇ、草薙剣って八岐大蛇のしっぽから出てきたのか。
・ 素戔嗚尊の妻の両親は「脚摩乳(あしなずち)」と「手摩乳(てなずち)」だが、「手足を撫で撫でしながら、我が子を慈しみ育てた、父母の労苦の擬人化。」なのかぁ。
・ 天照大神の第一子の「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)」
・ 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと): 「高」は尊称で、「むす」はものを生み出すこと。国歌の「君が代」の「さざれ石の巌となりて苔のムスまで」の「むす」。
天穂日命(あめのほひのみこと): 「尊」じゃなく「命」だから一段下がる地上の神。
この神の後裔氏族の本宗は、出雲国意宇郡(島根県松江市周辺)を本拠とし、大国主命を出雲大社に奉斎し、出雲国造を世襲した。室町時代に千家北島両家にわかれた。明治時代には両家とも男爵。
・ 日本書紀 巻第一 神代上(かみのよのかみのまき)
天と地の間に三柱の神が生まれた。「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」「国狭槌尊(くにのさつちのみこと)」「豊※※尊(とよくむぬのみこと)」。三柱は男性の神。
・ 国常立尊: 大地が永久普遍磐石であることを保証する神。古代語の「国(くに)」とは、人間が自然発生的に作った集落の大きいもの。また自然の大地を意味する。

★ 逆説の日本史 1 古代黎明編 - 封印された[倭]の謎 より

# 「当たり前のことは、誰も気にとめなくなる」。
※ これは「社会的現象」に当てはまるし「個人的現象」にも当てはまることですね。簡単に言えば「慣れ」ですねぇ。と同時に、「当たり前の事は記録しない」。従って、「記録にないからといって存在しなかった」ということにはならない。
※ 現在の常識が100年後にも常識であるとは限らない。とすれば、現在説明しなくても万人がわかることが、100年後に皆に理解されるとは限らない。従って、現在において常識だから特に書き留めることは無いと思っても、記録しておくことが必要。
逆に言えば、昔の事象で記録に残っていないことは、それが事実ではないのでは無く、当時の常識で特に書き残すことでは無いと考えられていた事なのかもしれない。

# 信長と地名の関係
・ 著者は、「当たり前のことで、だれも気にとめないこと」の一つとして、この「信長と地名の関係」をあげている。
・ 支配者が変われば地名も変わる: 美濃国稲葉山城を陥落させた後、「井の口」という地名を「岐阜」に変えた。明治維新に「江戸」が「東京」に変わったように。
※ 岐阜の語源ってなんだ?
・ 著者によれば、この当たり前の事(勝者が地名を変える)を日本で初めて行ったのは、古代を除いて「おそらく、信長」としている。
羽柴秀吉は、近江国今浜を長浜と変えた。
蒲生氏郷は、伊勢国四五百(よいほ)を松坂と変えた。
蒲生氏郷は、陸奥国黒川を会津若松と変えた。若松は「故郷の地名」にちなんだもの。
山内一豊は、土佐国河中(後の高知)と名付けた。
加藤清正は、肥後隈本を熊本と変えた。
・ 信長が、「岐阜」や「安土」の命名において、旧来の「周辺の地名由来」の命名法を使うわけがないと著者は書いているが、激しく同意!私もそう思う。

# 岐阜の命名: 天下布武を唱えた信長は、「昔、中国の周王朝は岐山(ぎざん)という小さい町から始まって、ついには天下を統一した。それにちなんで岐阜と名付けた。」『阜』とは『丘』の意味なので、『岐山』と『岐阜』は同意語。

# 「中国ドラゴンズの論理」、面白いなぁ〜、目から鱗だ。

# 国譲りの神話
大国主命(オホクニヌシノミコト)は出雲国を平定した後、伯耆国因幡国の二カ国を平定、播磨国で「韓の皇子の天の日槍(アメノヒボコ)」を打ち破り、北陸地方から信濃国まで勢力をひろめた。
これに対して、皇室の祖先神の天照大神はこの国の統治権を渡すように大国主命にせまった。
ほほう、大国主命の子の「タケミナカタ」を祀ったのが諏訪大社か、なるほど。たしか、諏訪神社の領域は、昔の大和朝廷から隔絶された自治区域的な状態だったらしいが。

# 「持衰(じさい)」: これは「倭人伝」にでてくる、、いわば人身御供(スケープゴド)のこと。昔は、航海は命がけ。そのため、「持衰」をつくる。これは、公開中「体を洗ったり、服(福)を洗ったり」してはいけない。汚れ(悪運)をこの人に押しつけるわけだ。もし、無事に航海が済めば褒美をもらえるが、遭難や病人がでれば責任を問われて死罪になったそうだ。

# 邪馬台国が狗奴国(くなこく)との戦争に敗れたために、卑弥呼は責任をとらされて殺された?
※ 古代人の考え方では、「天災も飢饉も疫病も」すべて王者(支配者)の責任。この説を最初に唱えたのは、故・松本清張だそうだ。しかし、殺しの命令を出したのは、「張政」という人だそうだが、この張政は中国の「魏」の死者だそうだ。なんで中国の意志で?
※ 狗奴国: 三世紀に邪馬台国と対立していた倭人の国で南九州にあった。
※ 張政: 邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、魏から派遣された役人。
卑弥呼は248年のおきた皆既日食の責任をとって殺された?天照大神の天の岩戸隠れの真実も皆既日食だったのか?

# 「ヒミコ」の「ヒミツ」
卑弥呼をモデルにしたのが天照大神といわれているが、それでは「卑弥呼」ってなんだ?著者も書いているが、王者は名前が前面にでることは無い。会社でも国家でも称号が前面にでる。たとえば「社長」や「首相」といったように。
つまり「卑弥呼」は「日御子」か、「日巫女」で「太陽(日)」に仕える女性のこと。そして、「卑」のような字面を与えたのは外国での書き方ではなかったか?
・ 著者は、またこういうことを書いている。「文明の国の魏から卑弥呼を激励しにやって来た張政も、日食が定期的に起こる天文現象だということは知っていただろう。しかし、それを教える必要は無い。原始人を繰るには、そういう情報を利用した方が有利である。」と。
これは、現代でも同じだなぁ。

★ 逆説の日本史 2 古代怨霊編 - 聖徳太子の称号の謎 より

# 飛鳥時代以後、つまり聖徳太子以降を言う。これ以前は文献がはっきりしていないので今後事実関係に大きな変化がある場合があるが、これ以降は文献などがはっきりしてある程度確定している。

# 聖徳太子は古代のキーポイントの人物。
・ 聖徳太子の墓は、大阪府河内郡太子町にある叡福寺にある。このあたりには、聖徳太子の父の用明天皇の陵や、叔母の推古天皇の陵もある。
聖徳太子の墓は現在、「皇族の墓」として宮内庁の管理下にあるそうだが、皇室は原則神道だから、お寺の中に神道の墓があるということになるのか。
そもそも、聖徳太子は天皇家の歴史のなかでも熱心な仏教徒だったとか。

聖徳太子はなぜ聖徳太子か?
それはあまりにも偉大な人だったから。それは誤解と著者は言っている。
本名は厩戸皇子(うまやどのみこ)で母は穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)。
聖徳太子と呼ばれたのは死後のこと。
聖徳太子の第一夫人は、橘妃と言われた橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)。
しかし、聖徳太子の棺の脇に祀られているのは、第一夫人では無く膳部(かしわで)夫人。

# 聖徳太子が子供の頃、蘇我氏と物部氏の崇仏(すぶつ)戦争がおきた。これは、朝鮮半島から伝来した仏教を受け入れるか否かの争いがきっかけで。聖徳太子は蘇我氏に味方した受け入れ推進派だった。

聖徳太子はどうして天皇になれなかったのか?
・ 用明天皇の第二子だったから?じゃ第一子はだれだ?
・ 一説には、叔母の推古天皇が長生きして、聖徳太子の方が先に死んだという理由。
聖徳太子: 574年2月7日〜622年4月8日
推古天皇: 554年〜628年4月15日

# 聖徳太子は平和主義者ではなかった、と著者は書いているが、その解釈はどうなのだろう?
この時代は、今とは異なり、生きていくために、そして権力を保持するために「戦い」は避けて通れない日常だったのではないだろうか?おまけに、先祖の遺訓をもとに朝鮮に出兵しようとしたことをもって好戦的という評価を下していいものか、やや疑問である。

# 聖徳太子は朝鮮半島に出兵して、新羅(しらぎ)から「内官家(うちつみやけ)」を取り戻そうとした。内官家とは、「任那(みまな)または「伽耶(かや)」といい、日本の天皇家の「故郷?の土地」。
この土地を取り返すことは、天皇家の宿願で代々遺言として伝えたそうだ。
それは、日本書紀に「571年に崩御した(29)欽明天皇が、死の床で皇太子(後の敏達天皇)に言った」という記録が残っている。
この(30)敏達天皇の妹が(33)推古天皇で弟が(31)用明天皇。敏達天皇と推古天皇は異母兄妹で、この時代異兄妹の結婚はタブーではなかったみたい。
(32)崇竣天皇の時代に2万の軍勢を筑紫に結集させたが海を渡ることはなかった。それは崇竣天皇が暗殺されたから。そのとき、どうして聖徳太子がいながら、女性の推古天皇ができたのか?当時聖徳太子は19才だったから年のせいでは無い。
当時は長子相続制では無い。
推古天皇の即位の翌年、聖徳太子は摂政(今の総理大臣)として正式に皇太子となった。
※ たしかに、謎だね。

# 602年(摂政になった10年後)に聖徳太子は実弟の来目(くめ)皇子を総大将として、2万5千の新羅の討伐軍を出す。しかし、またもや筑紫で来目皇子が急死したため、遠征は取りやめとなった。
次に当麻(たいま)皇子を将軍に任じたが、今度は当麻皇子の妻が亡くなった。

# ここで、面白いことが書いてある。
「新羅」はどうして「シラギ」と読むのか。自然に読めば「シンラ」だし、実際「シンラ」と読む文献もあるそうだ。それについては、「日本書紀の編集については百済人の学者が多数参加し、彼らが故国を滅ぼした新羅に対する恨みから、新羅をシラギと読ませた」ということだ。ちなみに、「シラギ」とは「新羅のやつら」の意味で、「ジャパニーズ」に対する「ジャップ」のようなもの。と、筆者は書いている。

# 607年に聖徳太子は中国を統一した隋に小野妹子を派遣した。しかし、問題は太子が書いた国書で、大国の隋に対して、ため口の文章を書いたのである。

# 中大兄皇子は中臣鎌足とともに蘇我入鹿を倒した。これが、大化改新。中大兄皇子は、その後天智天皇となった。中大兄皇子は、朝鮮半島に軍事介入して、唐と新羅の連合軍と戦おうとした。目的は百済復興。661年のことだった。
朝鮮半島が大国の支配下に入った時、日本は危機を迎える。13世紀の元のように。
同様に、中大兄皇子は、唐が朝鮮半島を支配したら日本は危機に陥ると考えた。
国内においては、防衛用の城をつくり、都を内陸の近江に移した。
日本、百済連合軍は663年に白村江の戦いで、と、新羅連合軍に大敗した。

# 都を奈良から京都に遷都したのは桓武天皇。
中国に強力な国家ができると、必ず周辺諸国を侵略しだす。
隋は高句麗を攻め→敗退
唐も新羅と手をむすんで、朝鮮半島に進出しようとしたが、結局手を結んだ新羅に追い出された。
聖武天皇はなぜ、奈良の大仏を作ったのか?

★ 逆説の日本史3 古代言霊編 - 平安建都と万葉集の謎 より

# 日本三大悪人: 弓削道鏡、平将門、足利尊氏
・ 弓削道鏡: 臣下でありながら天皇の地位をねらった。
・ 平将門: 朝廷に反逆した。
・ 足利尊氏: 後醍醐天皇に反逆した。
※ 余談だが、皇位継承権について。よく、歴史上「女性の天皇」はいたが、女性の天皇の系統の天皇はいないので、天皇の系統は男子に限るという話がある。
「逆説の日本史3」の12頁を見ると、
・ 天皇の血筋でない、「皇后」や「皇太子妃」が天皇になった歴史がある。代表的なのが「元明女帝」なのかな?
・ 日本の女帝は、元明天皇までは「皇后」または「皇太子妃」であった人だけで、未婚の天皇は一人もいないが、次の元正天皇からは、未婚でなければ女子は天皇になれないという習慣ができた。これは成文法では無いが、法で定められたのと同じように厳守されてきた。
ということは、女系の天皇は不可という以前に、女性天皇には事実上継嗣ができないというルール(未婚)によって実態として生じたことのようですね。

# 安禄山の乱: 唐の皇帝玄宗が楊貴妃を寵愛して政治をないがしろにしたため世が乱れておきた乱。首都長安が陥落。

# 女帝が寵愛した二人の男、「弓削道鏡」と「吉備真備(きびのまきび)」。この二人の名前を一字ずつとる。「道」と「真」→それを合体すると「道真」だぁ。なるほど、偶然の一致にしろこれは面白いなぁ。
「吉備真備」と「菅原道真」は、「皇族でも藤原氏でもないのに、学問の能力だけで右大臣まで上り詰めた」。

# 昔、神社に祀ったというのは、尊敬して祀ったわけではなく、その怨霊を鎮めるために祀った。その代表が、大国主命の「出雲大社」と、菅原道真の「太宰府天満宮」。

# 平安時代の国家の財政は窮乏した。そのために軍隊も廃止した。その結果、治安は悪化した。なぜ財政が窮乏したのか?筆者は、その原因を「荘園」のせいだとしている。
・ 荘園とは何か?簡単にいうと「免税の私有地」だそうだ。荘園の本来の意味は(公家の)別荘の庭園という意味らしい。つまり、「田畑でなく庭園だから、税を払う必要は無い」という解釈のようだ。今でもあるなぁ、ある種の特権の人たちに対する「非課税」というシステムが。

# 大和朝廷のシステムは徳川幕府と同じような地方分権のようなもので、豪族(王)といわれる国の連合体であった。

# 藤原氏の氏神の春日大社の神紋は「下がり藤」

★ 日本の歴史がわかる本 小和田哲男 三笠書房

# 徐福(じょふく)
・ 中国の「秦」の時代の人で、始皇帝から「不老長寿の薬を探せ」と命じられ日本に渡って来た。以前は伝説上の人と言われてきたが、最近実在の人と判明。
・ この人は紀元前219年に日本に渡り、縄文時代から弥生時代に移行しようとしていた日本の国の文明開化に大きな役割を果たした。
・ このように大陸から日本に文明を伝えた人は多く存在するが、その代表的な人として史実に名を残す。
・ 「徐福伝説」は青森から鹿児島まで各地に残っているそうだ。

# 縄文に代から弥生時代に
・ 縄文時代は「石器」「狩猟」文化であったが、弥生時代は「鉄器」「農耕」文化である。そして、弥生時代には「資産(私有財産)」という概念がおき、鉄器による武器の発達をも伴って「争い毎」が増加した。
・ 当時、「鉄」は鉱石からでは無く、「葦(あし)の根」を原料として作っているようだが、膨大な葦が必要なんでしょうね。
・ 縄文時代の人口は約26万人(東日本25万人・西日本1万人)。ただし寒冷期を迎えた縄文末期には全国で約7.5万人

# 縄文時代には竪穴住居がいくつか集まって「ムラ」を形成していたが、その集団には指導者(首長)がいなかったことから「ムレ」であるという考え方もある。

# 魏志倭人伝による「邪馬台国」
・ 卑弥呼を中心に七万戸の人口を擁する。
・ 邪馬台国は周辺の二十一カ国と連合国家を形成していた。
・ 邪馬台国の位置は諸説あるが、九州の筑後川流域では無いかという説もある。
・ 邪馬台国の南には「狗奴(くな)国」という強国。
・ 邪馬台国は大和朝廷の原型となる畿内勢力によって滅ぼされた。他には「邪馬台国が東に勢力を伸ばし大和朝廷になった」「狗奴国が邪馬台国を滅ぼして、九州に遠征した原大和国家を滅ぼして大和朝廷になった」という説もある。
・ 魏志倭人伝に記された倭の地名: 「対馬国」「一支国(壱岐国)」「末廬国」「伊都国」「奴国(博多付近)」「不弥国」「邪馬台国」

# 古墳時代
・ 三世紀の日本には「吉備国」「出雲国」などの「邪馬台国」と同規模の国があった。大和朝廷となる神武天皇率いる原大和国家三輪王朝(奈良盆地の三輪山付近)もその一つ。
・ 四世紀後半に王朝は三輪から大阪の河内平野に移り住んだ。
・ 369年、倭軍の朝鮮出兵。任那(みまな)に日本府を置く。
・ 原大和国家は四世紀後半には、日本を代表する勢力となり朝鮮半島「任那(みまな・加羅)」まで領地を伸ばしていた。
・ 五世紀後半には吉備の王による反乱があった。
・ 六世紀前半には筑紫の豪族で八女を本拠としていた磐井氏を中心とした九州の乱があった。
・ 継体天皇の三代後の欽明天皇によって日本統一はほぼ達成された。
・ 欽明天皇の頃に仏教が伝来した。しかし物部氏はこの仏教の受け入れに反対した。その結果、「朝廷内の軍事派」の物部氏と「朝廷内の文民派(財務)」の蘇我氏(渡来人)との対立が深まり、ついには蘇我氏が物部氏を滅ぼした。
・ 推古天皇の即位後の180年間の15代の天皇の内8代は女帝。
・ 聖徳太子は「冠位十二階」や「十七条の憲法」を作った。
※ 冠位十二階: 603年制定。朝廷で被る冠で位階をあらわした。
※ 十七条の憲法: 604年制定。日本最初の成文法。
・ 中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は蘇我氏を滅ぼした。この時期から藤原氏中臣鎌足)の勢力が拡大されていった。(大化の改新)
※ 大化の改新: 「私地私民の禁止」「地方行政制度の制定」「戸籍・計帳・班田収集法の制定」「新しい税制の制定」。
・ この時期、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐の水軍に大敗し朝鮮半島から完全に撤退した。
・ 壬申の乱: 天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)と天智天皇の子の大友皇子(後の弘文天皇)の争い。大海人皇子が勝利し、673年に天武天皇となった。天皇という称号が使われたのはこの時からとか。
・ 天武天皇の孫の代の701年に大宝律令がだされ律令国家体制が確立。
※ 班田収集法: 土地は共有を基本とし、6年毎に6才以上の男子に二段、女子にはその三分の一減の口分田が班給された。
※ 祖(稲の収穫の3%)、雇(十日間の労働のかわりに納める布)、調(その地方の特産物)の税の他に雑?(ぞうよう)という60日の労働が課せられた。

# 奈良時代から平安時代
・ 藤原氏の権力維持の方法の一つとして他氏排斥があった。
866年、大納言の伴善男を放火の犯人として失脚させる(応天門の変)
901年、右大臣の菅原道真を太宰府に追放

・ 藤原道隆の娘の定子が一条天皇の中宮になった。この定子に使えた女官が清少納言。
・ 藤原道長の娘の彰子が皇后となった定子に変わって一条天皇の中宮になった。この彰子に使えた女官が紫式部。

# 武士の誕生と鎌倉時代
・ 諸国の武士団の棟梁の代表は「桓武平氏」と「清和源氏」だが、「前九年の役」と「後三年の役」を鎮圧した源義家の源氏の勢力が強まった。
・ 源氏の勢力を恐れた白河上皇は伊勢平氏の長の平正盛・忠盛親子を引き立てた。
・ 後に平清盛が勢力を持ち、平治の乱で源義朝を倒して太政大臣に登りつめた。
・ その後源平の合戦を経て、1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開いた。

# 室町幕府と南北朝時代
・ 文永の役と弘安の役の元の襲来で、鎌倉幕府の御家人たちは窮乏し鎌倉幕府も衰えていく。
・ 1338年に室町幕府が開かれた。
・ 南北朝時代を制したのは三代将軍の足利義満。


★ ワンポイント

# 青森県の三内丸山遺跡: 定住しないと思われていた縄文人が定住していたということを示している。

# 伊勢神宮はどうして20年毎に建て直されるのか?それは掘っ建てだから。掘っ建て小屋、イメージ良くないが、これは地中に柱を直接突き刺す古代の工法で長持ちしない。法隆寺は、礎石の上に柱を突き刺す方式なので長持ちする。

# 上杉謙信は毘沙門天の他に、飯綱権現(いづなごんげん)の信者であった。それは謙信の兜の前立てが飯綱権現の像なのでもわかる。飯綱権現は深く信仰すれば超能力(妖術)が得られるが、その超能力を得るためには、女色を絶たなければならない。

# 「役」:  〜の役の「役」とは国外との戦いを指す。たとえば秀吉の朝鮮の「文禄の役」「慶長の役」のように。その理屈でいえば、「前九年の役」「後三年の役」は蝦夷を国内とは思っていなかった証。

# 蝦夷(えみし)

# 鎌倉時代に地名に由来する名字が増えた原因のひとつに、分割相続制度がある。

# 「守」と「介」: たとえば「越前守(かみ)」の「守」は長官。「上総の介」の「介」は次官の意味。

# 旧石器時代と縄文時代の違い
・ 旧石器時代は打製石器の時代。縄文時代は磨製(ませい)石器の時代。

# 国分寺は、東大寺大仏殿の支店のようなもの。

# 古代、纏向王朝を作った崇神天皇に始まる日本に対抗するのが、新羅を追われてきた一族で、その復讐のために、新羅に攻め込んだ。その後、雄略天皇までつづいたか、天武天から纏向王朝へ交代。← という説もあるようだ。
※ 一族って天日槍(アメノヒボコ)一族?天日槍を祖とする新羅の「ホムタギ」の一族の「ホムタ」(誉田)は執拗に新羅を攻めたって話もあるな。

# 墾田永年私財法: 奈良時代に、藤原氏は「墾田永年私財法」を作った。もともと、日本の土地は公地だったが、この法律により、開拓した農地は開拓者(有力者)の私有地になった。

# 縄文時代末期には米の生産(陸稲)が行われていた。ベトナム語では稲のことをイネップという。

# 推古天皇は敏達天皇のお后だが、2人は異母兄妹。推古天皇には子供もいた?

# 総社: 群馬県岡山県には今もこの地名が残る。これは、国府の役人が国中の神社を全部まわるのは大変だから、各々の神社の分霊をしつ1箇所に纏めた。元々は各国に一つあった。

# 朝鮮半島の三国時代
・ 新羅(シンラ)
356年〜935年にかけて、朝鮮半島の東南部にあった国で、7世紀の中頃に朝鮮半島をほぼ統一した。
・ 百済(クダラ)
346年〜660年にかけて、朝鮮半島南西部にあった国で、新羅を後押しした唐に滅ぼされ、新羅に併合された。
・ 高句麗(コウクリ・コマ)
紀元前37年〜668年にかけて、朝鮮半島北部から中国の東北部にあった国で、新羅を後押しした唐に滅ぼされ、新羅に併合された。

# 「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほくに)」=後の日本は、大国主命が治める国であったが高天原(たかまがはら)の最高神の天照大神は自分の孫のニニギノミコト(天皇の先祖)にこの国を与えたいと思った。

# 日本書記によると継体天皇21年(527年)6月に、新羅に占領された任那を復興させるために、近江臣毛野に6万の兵をつけて出兵。しかし、磐井が新羅と手を組んで、毛野の渡海を阻止した。

# 日本の神社の多くは、神として崇め奉って祀っているのではなく、霊を鎮めるため。出雲大社も太宰府天満宮も同じ。

# 日本は中世以降明治まで神仏習合の国だったので、「お寺も神社も一つ」だった。かつては、大寺の境内にはその仏が「神」と化した姿を祀る神社があり、大きな神社には逆にその神の本体(本地)である仏を祀る寺があった。特に、神社の境内にあった「仏」を祀る寺は「神宮寺」と呼ばれ、これは明治以前は国分寺と共に全国各地にあった。
ところが、明治政府は仏教と神道を強制的に分離したため、神宮寺のほとんどは破却され、わずかに残ったものは「仏教専用」になった。
全国で唯一、若狭国に残る神宮寺だけは、かつても「神と仏を同じところに祀る」という古い形態を残している。

# 日本初の神主: 第十代崇神天皇の時代に、出雲神大物主神(おおものぬしかみ)を祀るためにヤマトに招き寄せた太田田根子(おおたたねこ)が歴史上初の神主と言われ、大神神社の三輪氏の祖。

# 年貢と地租
・ 年貢は見込まれる収穫量に対して課税。
・ 地租は土地に対して課税なので、収穫量が少ないと不公平感がでる。

# 伏見稲荷は神道系のお稲荷さん、豊川稲荷は仏教系のお稲荷さん。

# 邪馬台国の読み: 邪馬台国を今の日本の読み方で、「ヤマタイコク」と読んでいいのか?邪馬台国は中国の歴史書の魏志倭人伝に出てくるので、当時の当時の中国の読み方で邪馬台国を読むと「ヤマド国」と読む。ヤマトの語源か?

# 弥生人: 縄文人と渡来人が融合して稲作を始めることにより弥生人が生まれたとされる。

# 倭: 古代、大陸では日本のことを倭(わ)と呼んでいた。その語源には諸説在るが、大陸の人が倭人に「どこから来たのか?」と尋ねたのに対して、倭人は言葉が通じなくて、「我(わ−)」と言ったのを取り違えたという話もある。

# その他の歴史の雑学集

【参考年表】(逆説の日本史 他 より) ・ 【名字の年表

  日 本 中 国 朝 鮮
旧石器時代 ・ 明石人(兵庫県)・牛川人(愛知県)・三ヶ日人(静岡県)などが出現。
・ 打製石器を使用: 握槌(にぎりつち)、石刃(せきじん)、尖頭器(せんとうき)、細石器(さいせっき)。
・ 岩陰や洞窟に住む。
・ 岩宿時代: 今から3万年前の縄文時代の前にあった先土器時代のことで、群馬県みどり市笠懸町岩宿の関東ローム層から黒曜石の石器が発見された。岩宿時代は石器はあったが、土器はない。
   
BC10000年 ・ 日本列島がほぼ現在の形になる    
縄文時代 ・ 人口の増加、竪穴住居の発達
・ 縄文土器、磨製石器、骨角器の利用
・ 弓矢の使用。
・ 屈葬(くっそう)、土偶(どぐう)、抜歯(ばっし)の風習。
・ 原始農耕の発生
BC11世紀: 殷が滅び周が建国  
  BC3世紀: 弥生文化が成立。各地に環濠集落が出現    
  BC2世紀: 吉野ケ里(日本最大の環濠集落)が栄える    
一世紀 AD57年: 倭奴国王が後漢に朝貢、金印(漢委奴王国印)を受ける。 AD25年: 後漢が建国 AD37年: 高句麗が建国(〜668年)
二世紀 107年: 倭国王師升ら後漢に朝貢
158年: 紀元後第1回目の皆既日食。この頃、倭国大乱
   
三世紀 239年: 卑弥呼、魏へ使者を送り親魏倭王の称号と金印および銅鏡100枚を受け取る
247年: 邪馬台国、狗奴国と交戦。魏、邪馬台国を支援のため張政を派遣
248年: 紀元後第2回目の皆既日食。卑弥呼死す。
220年: 魏が建国(三国時代のスタート)
265年: 西晋が魏を滅ぼす(三国時代終わる)
280年: 晋が三国を統一。
 
四世紀 (この間、邪馬台国が九州から大和へ移動か?)

3世紀〜5世紀: 国譲りの後、大国主命の霊が出雲大社に封じ込められる。崇神天皇が疫病を流行させた大国主命の霊を子孫に祀らせる。

391年: 倭国が渡海して百済・新羅に侵攻。

317年: 東晋建国(五胡十六国との対立が始まる) 346年: 百済が建国(〜663年)
356年: 新羅が建国(〜935年)
399年: 高句麗広開土王、朝鮮半島に侵入した倭(日本)軍を撃退
五世紀 400年頃: 河内平野に巨大な古墳ができた
421年(425年?): 倭王讃(仁徳天皇?)宋に朝貢 
471年: 埼玉県稲荷山古墳の鉄剣(ワカタケル大王=雄略天皇の名あり)が作られる
420年: 宋が建国。  
六世紀 538年: 仏教伝来
592年: 蘇我馬子が崇峻天皇を殺す。聖徳太子がノイローゼで伊予に渡る?日本初の推古天皇が即位。
589年: 隋が第一次高句麗遠征(第二次612年、第三次614年)  
七世紀 600年頃: 聖徳太子が中央政界に復帰。
607年: 聖徳太子が隋に国書(日出ずる処の天子)を出す。
622年: 聖徳太子死す。
645年: 大化の改新(中大兄皇子【後の天智天皇】が蘇我入鹿を討ち、蘇我一族を滅ぼす。
663年: 白村江の戦いで倭国敗退。倭国・百済(義勇軍)連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる。
667年: 近江国大津に遷都
670年: 初めての戸籍ができる。庚午年籍(こうごねんじゃく)。
671年: 天智天皇が大海人皇子(後の天武天皇)に暗殺される?
672年: 壬申の乱。大海人皇子が後遺(天武天皇)につく。
※ この間、唐と断交し新羅と友好関係が深まる。
686年: 天武天皇死す。大津皇子、持統天皇に殺される。近江三井寺(園城寺)建立。
697年: 持統天皇、文武天皇に譲位して初の上皇となる。
618年: 隋が滅び、唐が建国。
690年: 唐が滅びる。
611〜614年: 高句麗、隋を撃退する。
668年: 高句麗が滅ぶ。
676年: 新羅が朝鮮半島を統一。
698年: 渤海が建国。
八世紀 707年: 文武天皇死す(25才)
710年: 平城京に遷都
720年: 日本書紀なる
729年: 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王一族滅亡
737年: 天然痘により藤原四兄弟全滅
741年: 国分寺、国分尼寺建立の詔
743年: 大仏建立の詔
749年: 考兼女帝即位
752年: 大仏開眼供養
766年: 道鏡が法王になる。
769年: 宇佐八万神託事件。
770年: 道鏡が失脚。
784年: 長岡遷都の詔。
792年: 辺境の地を除き諸国の兵士を廃止(軍備撤廃)し、健児を置く。
794年: 平安遷都。
797年: 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任ずる。
705年: 唐が復興。
755年: 安禄山の乱。
 
九世紀 802年: 蝦夷のアテルイら降伏。
806年: 桓武天皇死去。
894年: 遣唐使を廃止。
  892年: 後百済が建国。
十世紀 905年: 古今和歌集。 907年: 唐が滅び、後梁が建国(五代十国時代が始まる)
916年: 遼(契丹)が建国される。
918年: 高麗が建国(新羅・後百済・高麗の後三国時代の始まり)
926年: 渤海が滅びる。
935年: 新羅が滅びる。
936年: 後百済が滅びる。高麗による朝鮮統一。
       

★ 参考年表 その2(日本の歴史がわかる本 他)

年代    
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         

★ 参考資料 隠された系図 喜多暢之著

歴代 漢風諡号 日本書紀名称 読み 備考 地名入 筆者注 実名

神武

神日本磐余彦尊 かむやまといわれひこ

磐余

綏靖 神渟名川耳尊 かむぬなかわみみ 欠史八代 渟名川
安寧 磯城津彦玉手看尊 しきつひこたまてみ 欠史八代 磯城
懿徳 大日本彦耜友尊 おおやまとひこすきとものみこと 欠史八代 田を鋤く
孝昭 観松彦香殖稲尊 みまつひこかえしねのみこと 欠史八代 観松 稲を植える
孝安 日本足彦国押人尊 やまとたらしひこくにおしひとのみこと 欠史八代 たりしひこ
孝霊 大日本根子彦太瓊尊 おおやまとねこひこふとにのみこと 欠史八代 根子
孝元 大日本根子彦国牽尊 おおやまとねこひこくにくるのみこと 欠史八代 根子
開化 稚日本根子彦大日日尊 わかやまとねこひこおおびびのみこと 欠史八代 根子
10 崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇 みまきいりびこいにえのすめらのみこと 御間城 イニエ
11 垂仁 活目入彦五十狭茅尊 いくめいりびこいさちのみこと イサチ
12 景行 大足彦忍代別天皇 おおたらしひこおしろわけのすめらみこと 忍代 たりしひこ
13 成務 稚足彦尊 わかたらしひこのみこと たりしひこ
14 仲哀 足仲彦天皇 たらしなかつひこのすめらみこと たりしひこ
15 応神 誉田別尊 ほむたわけのみこと たりしひこ
16 仁徳 大鷦鷯天皇 おほさざきのすめらみこと

# 神武天皇と第十代の崇神天皇の名前は同じで、「はつくにしらすすめらみこと」。「すめらみこと」は天皇で、「初めて国を統治したで」の意味。

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