京都の地名の由来
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu  京都府の由来
スポンサーリンク
スポンサーリンク

 ★ 京都の地名の由来

★ 京都の地名の雑学

■ 京都は平安時代から明治時代に至るまで戦乱が繰り返され、権力闘争に敗れた貴族や武将たちは殺戮された。今でこそカップル御用達の鴨川の河原も、かつては引き取り手の無い死体の捨て場であった。鴨川の流れは急で、水量が増すとそれらの死体は下流の淀川を経て大阪湾まで流れ着いた。このような死者の恨みが怨霊となってさまよい、かつては天変地異をこのような怨霊のせいとし、霊を慰めるために多くの寺社が作られた。菅原道真を祀った天満宮などはその代表であろうか。【ほんとうは怖い 京都の地名散歩 浅井建爾 PHP】

■ 平安京の正門を羅生門というが、世の中が乱れていた時には、この羅生門の屋根裏は盗賊たちの住み処ととなり、その周辺は死体の捨て場となっていたようだ。【ほんとうは怖い 京都の地名散歩 浅井建爾 PHP】 

■ 京都の町の歴史

# 794年の京への遷都の詔に「この国、山河襟帯(さんがきんたい)、自然に城を作(な)す。この形勝によりて新号を制すべし。よろしく山背国を改め山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞し、平安京と号す。」と書かれている。つまり、平安遷都を機に「山背(やましろ)国」から「山城(やましろ)国」と表記するようになった。
※ 京都盆地が形成されたのは約80万年前。数万年前の旧石器が発見されている。

# 「やましろ」の国
・ 「やましろ」とは「山の国」という意味を持つが、5〜6世紀までは「山代」と表記されたが、7世紀後半には「山背」に替わる。
・ 5世紀以降、山背国には渡来人を含めて多くの人たちが移り住んだ。
【北域】賀茂氏、出雲氏小野氏秦氏、土師氏、八坂氏
【南域】百済王氏(くだらのこにしき)、高麗(狛)氏。
【渡来人・再掲】小野氏秦氏、土師氏、八坂氏、百済王氏、高麗氏。
・ 秦氏: 土木技術、養蚕、機織技術。

# 桓武天皇と平安遷都
・ 平城京 → 長岡京(784年) → 平安京(794年)
・ 怨霊思想: 奈良時代以前に生まれた怨霊思想とは、「非業の死をとげた人の魂が跳梁(ちょうりょう)して祟りをなす」という考え方で、大国主命菅原道真が代表的で、それを鎮めるために建立したのが「出雲大社」や「太宰府天満宮」。
・ 高野新笠(たかのにいがさ)は桓武天皇の母。

# 条坊制
・ 一条を四坊に分け、一坊を四保(ほ)に分け、一保を四町に分けている。
・ これらの区画は東西に走る13の大路と26の小路、南北に走る11の大路と22の小路で区分されている。
・ 小路の幅は12m。
・ 大路の規格: 朱雀大路は別格で幅85m。二条大路は幅50m。その他、36m級、30m級とあり、一番狭いのは24m級。

# 【青柳】: 平安時代初期に歌われた、「催馬楽(さいばら)」に「大路に沿ひてのぼれる 青柳が花や 青柳がしなひをみれば 今さかりなりや」の一節があり、大路の両側には青柳が植えられていた。

# 平安京の人口は約15万人。

# 京戸(きょうこ): 京に住んで戸籍を有する人。

# 敷地の広さ: 貴族や下級官人の屋敷は方一町、二分の一町、四分の一町。京戸の敷地は一町の三二分の一。この単位を「一戸主(いちへぬし)」といい、約300平方メートル。

# この時代の市場は国営マーケット。左右の両京に12町の広さを持つ大きな市場が2つあり。「東市(ひがしいち)」、「西市(にしいち)」と言った。ここを運営する役所を「市司(いちつかさ)」といった。10世紀に入って右京の西市が衰退し、東市も周辺に民間の商店街が作られ、国営市場の役割を終えた。
・ 西市の衰退の原因は右京の衰退: 右京は地政学的に不利で、湿地帯などが多かった。そのため人口の流出が目立った。

# 京都という名称は平安後期(十一世紀前後)から使われ始めた。

■ 京都の中世

# 二つの大火で京都の約1/3が焼けた。
・ 1177年4月28日の「太郎焼亡」
・ 1178年の「次郎焼亡」

# 中世に入って「大路」「小路」の幅は狭くなった。

# 内裏(だいり): 天皇の居所

# 里内裏(さとだいり): 内裏はたびたび焼失したので、そのたびに公家の邸宅を居所として利用された。これを里内裏と言う。

# 内裏は1227年の焼失後は再建されず、その跡地は内裏跡の荒れ野から転じて「内野(うちの)」と呼ばれた。

# 京都御所
南北朝時代の1331年に光厳(こうごん)天皇が、当時、里内裏として利用していた東洞院土御門(ひがしのとういんつちみかど)殿で践祚(せんそ)して以降、ここが皇居として固定化され、そこが現在の京都御所である。

■ 京都の町

# 京の七口
・ 大原口(おおはらぐち): 大原を経由して若狭街道への続く。
・ 荒神口(こうじんぐち): 北白川から山越えで近江の坂本へ抜ける山中越(志賀越)
・ 鞍馬口(くらまぐち): 鞍馬街道の入り口
・ 東寺口(とうじぐち): 大阪方面 山崎道 西国街道の別名
・ 粟田口(あわたぐち): 三条口
・ 伏見口(ふしみぐち): 伏見に向かう伏見街道口。
・ 竹田口(たけだぐち): 竹田街道
・ 丹波口(たんばぐち): 亀岡から丹波に通じる山陰街道。
・ 長坂口(ながさかぐち): 周山、若狭へとつづく長坂越。

# 京都市花園町
1383年に弘法大師空海が花園を作り仏の供養のために山吹を植えたことから花園町款冬(やまぶき)田と呼ばれた。

# 京都市木屋町
高瀬川沿いに拓かれた街で、当初高瀬舟で運ばれたのが材木や炭だった。当初は樵木(こりき)町と言われた。

# 京都市一之船入町
高瀬川の一番目の船入(船着き場)ができた。

# 先斗町
1669年に江戸幕府が鴨川の氾濫から街を守るために川の両側に石垣の堤防を作った。先斗町の先斗(ぽんと)とはポルトガル語で「先」のこと。

# 右馬寮町、左馬寮町、式部町、職司町
平安京大内裏の内側や近接した所にあった役所の名前に由来する。
・ 左・右馬寮: 朝廷行事で使う馬の飼育を担当する部署。
・ 式部: 大内裏南端にあった朱雀門の東に位置した役所で、文官の位記、礼儀など人事一般をつかさどる役所。
・ 職司: 平安京の司法・警察などを担当した京職(きょうしき)という役所。

# 壬生(みぶ) → 「壬生」の名字
昔は「水生」と書いた。「壬」は干支では「みずのえ」と発音し、水に通じる文字だった。

# 壬生寺の近くに八木家がある。ここは幕末に壬生浪(みぶろ)と言われた新撰組の発祥の地。

# 上京区に立売(たちうり)のつく通りや町名がある。
立売とは露店のこと。民間の市場があった。

# 京都の台所の錦市場のあたりはかつては「尿(くそ)小路」と言われていたが、それを聞いた天皇が、あまりにも汚いと言うことで、近くに綾小路があるので、綾錦にちなんで錦市場と名付けた。

# 西陣
応仁の乱で西軍の山名軍の本陣とした屋敷があった。

# 野宮神社(ののみや)
未婚の内親王が伊勢神宮に奉仕する前に一年間潔斎(けっさい)のために籠もる所。

# 渡月橋
亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」という言葉に由来し、平安時代の辞書の倭名類じゅしょうにも載っている。

# 宇治
応神天皇の皇子の、「うじのわきいらっこ」菟道#郎子が宇治川の谷口部に桐原日桁宮(きりはらのひけたみや)を営んだのが始まり。

# 松花堂
石清水八幡宮で、江戸時代初期に摂社石清水社の社僧の松花堂昭乗が草庵の松花堂を建て晩年を過ごしたのに由来する。
会席料理の松花堂弁当は昭乗が考案し、絵の具箱として使用していた木製の四つ切りの入れ物に料理を盛って茶席の客に出したのが始まり。

# 京都の豪商
・ 茶屋、上柳、後藤、角倉、亀屋。
その下には
・ 丁字屋、三木、那波屋、日野屋、吉文字屋、、大黒屋があった。

# 御土居(おどい)
・ 秀吉が京都を土塁で囲んだ。全長約23キロメートル、高さは2〜3間、厚さは18〜20m以上。1591年に完成。
※ こんな大規模な構造物、今でも名残はありそうだが?あるのか? 


【参考資料】 

・ 地名で読む京の町(上下) 森谷 尅久 PHP文庫
・ ほんとうは怖い 京都の地名散歩 浅井建爾 PHP

スポンサーリンク
スポンサーリンク
統計表示統計表示